資本主義の精神

仕事を効率的に行うことに価値があるわけではない。効率的に金を稼ぐことに価値があるわけではない。世の中にとって必要な仕事を行うことに価値がある。報酬はその結果として生じるに過ぎない。

勤勉は美徳である。しかし、それが唯一の美徳であるわけではない。勤勉な泥棒もいるかもしれないが、その勤勉さに価値はない。世の中の役に立つ仕事には価値があり、そうでない仕事に価値はない。金を稼ぐことが無条件によいことであるならば、泥棒もよいことをしていることになる。そんな馬鹿な話はない。

プロテスタンティズムでは勤勉と蓄財を美徳とするようだが、それは美徳でも何でもない。問題は、どのような仕事によって財をなしたかということと、その財をどのように使うかということである。稼いだ金を己一人のために使うのであれば、金を稼ぐことはよいことではない。もちろん、それ自体は悪いことではないが、決してよいことでもない。

キリスト教徒は、罪悪感から逃れるために仕事に打ち込む。その様はほとんど偏執的である。反対に、仕事に打ち込めない人間は罪悪感に苛まれることになる。まったく異常なことである。仕事をしないことがなぜ悪いのか。何の罪も犯していないのに。

キリスト教徒の異常さは、原罪から逃げるために常に努力を続けようとするところにある。それは逃亡犯に似ている。彼らがいったい何を恐れているのか、何を忘れようとしているのか、私には皆目見当がつかない。

「小人閑居して不善を為す」という言葉がある。これは裏を返せば、大人は閑居しても不善を為さない、ということである。自分が大人であるという自覚があれば、暇を恐れる理由はない。自分が小人であると思うから、暇を恐れる。すべてのキリスト教徒は小人なので、絶えず閑居を恐れている。彼らは大人になる方法を知らないのである。

原罪など存在しない。それは心のねじくれた人間のたわごとに過ぎない。キリスト教徒は放っておけばどんな罪でも犯すだろう。それは事実、あらゆる犯罪の原因である。

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