動機がない犯罪

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 すべての犯罪には必ず動機がある。動機がない犯罪もありうる、と主張する人間は、彼自身の犯罪を隠そうとしているだけである。犯罪というと大げさだが、良心の呵責をごまかすために、そういうことを言うのである。
 彼が言いたいのは、誰もが犯罪を犯しうる、ということであり、さらに言えば、誰もがすでに犯罪を犯しているようなものだ、ということである。つまり彼は、原罪の存在を主張しているのである。
 そしてそのような主張は、自分自身の心のやましさを隠すために行われる。皆が犯罪者であれば、自分の犯罪も咎められずに済む、という考えである。それがキリスト教徒の思考パターンであり、リベラルな人々の思考パターンである。
 実際には、動機のない犯罪はありえない。そして動機が明らかにされなければ、適切な裁きを下すことはできない。ゆえに、動機の追究を諦めてはならない。

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 また自由意志の存在や、人権の尊重といったドグマも、このような傾向を助長している。人間の行動の動機は、必ずしも、その本人の中に見つけられるわけではない。つまり、本人が自分の行動の理由に気付いていない、ということもありうるわけである。
 しかし自由意志の存在を認めるならば、すべての行動の原因は、その人自身の中にあることになる。そうすると、本人にも動機の分からない犯罪は、何の動機もない犯罪として理解されてしまうことになる。だが、そのような犯罪であっても、何の動機もないとは言い切れないのである。
 行為主体の存在を仮定することは、人間行動の正しい理解を阻害しているように思われる。

 原罪の存在を証明することはできない。ゆえに、原罪が存在する、という前提で議論を進めることは危険である。もちろん、それが存在しない、ということを証明することもできない。しかし、存在することが証明できない場合は、さしあたって、存在しないという前提でものを考えたほうが安全である。自由意志もこれと同じである。

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