現代語訳大智度論 第十二巻

(大智度論釋初品中檀波羅蜜法施之餘)

初品の中の「施しの完成(檀波羅蜜)」の法施の解説の続き。

問 1

檀那波羅蜜の満とは何か。

檀那とは、上で説いたとおりである。波羅蜜とは「施しの川を渡って、彼岸に至る」という意味である。

問 2

では、「彼岸に至らない」とはどういうことか。

たとえば川を渡るときに、まだ向こう岸に到達していないのに帰ってくるのを「彼岸に至らない」というのと同じである。


シャーリプトラは六十劫の間菩薩の道を行い、施しの川を渡ろうとしていた。あるとき托鉢者がやって来て、彼のめだまを乞うた。シャーリプトラは言った、

「めだまはそれ自体で役に立つものではない。どうしてこれを求めるのか。私の身体や財物が役に立つなら、喜んで差し出そう」

托鉢者は答えた、

「あなたの身体や財物は必要ない。あなたのめだまが欲しいのだ。あなたが本当に施しの修行を行っているならば、そのめだまをよこしなさい」

そこでシャーリプトラは片方のめだまを取り出して、与えた。托鉢者はめだまをもらって、シャーリプトラの前でそのにおいを嗅ぎ、嫌悪して唾を吐きつけ、地面に棄てて足で踏みつけた。シャーリプトラは考えた、

「このようなろくでもない人を救うことは難しい。めだまは何の役にも立たないのに、無理に求めて、手に入れればすぐに捨て、そのうえ足で踏む。これほどひどい人はいない。このような人を救うことはできない。自分自身を調えて、早く生死の世界から解脱したほうがよい」

このように考えて菩薩の道から退き、小乗に転向した。これを「彼岸に至らない」という。まっすぐに進んで退かず、仏の道を完成することを「彼岸に至る」という。


次に、常住と断滅の見解を此岸といい、常住と断滅の見解を打ち破る智恵を彼岸といい、施しの修行に努めることを川の中という。

次に、施しに二種類ある。一つは魔の施し、二つは仏の施しである。煩悩の束縛という盗賊に奪われ、悩み恐怖するのは魔の施しである。これを此岸という。一方、清浄に施しを行って、煩悩の束縛という盗賊もなく、恐怖もなく、仏の道に至ることを仏の施しという。これを彼岸に至るという。

仏は毒蛇喩経に次のように説いている――


ある人が罪を犯した。王は彼に一つの箱を与えた。箱の中には四匹の毒蛇がいて、王は罪人にこれを育てさせていた。彼は思った、

「四匹の毒蛇には近づきがたい。近づけば咬まれてしまう。一匹でも危険なのに、四匹も育てることはできない」

そこで箱を捨てて逃げると、王は五人の家来に刀を持たせて彼を追わせた。彼は次に一人の人に出会った。口では味方だと言っていたが、心中では彼を傷つけようとしていた。その人が語るには、

「正しい方法で育てれば、蛇が害を及ぼすことはない」

彼はこの人の考えをさとって、走り回って命を逃れ、ある廃れた集落に行き着いた。一人の善人がいて、彼のためを思って言った、

「この村は無人ですが、盗賊の根城になっています。ここに留まれば、必ず盗賊に殺されるでしょう。気をつけて立ち去りなさい」

その村を立ち去って大河に辿り着いた。川の向こう岸は別の国だった。その国は安楽で穏やかで清浄で、災いのないところだった。そこで彼は様々な草木を集め、縛って筏をつくり、川に浮かべ、自分の手足を使って、力の限り川を渡ろうとした。やっと対岸に着くと、そこは安楽で患いのない土地であった。


この話の中で、王は魔王、箱は人間の身体、四匹の毒蛇は四大の元素、五人の帯刀した敵は五蔭(人間を構成する五種類の要素)、口では善いことを言い、心に悪心を抱いていた者は執着、人のいない集落は六つの感覚器官(五感と心)、盗賊は六つの感官の対象である。彼を憐れんで語りかけた人は善師であり、大河は愛着、筏は八正道、手足によって力を尽くして川を渡ることは精進の修行、こちらの岸は世間、向こう岸は涅槃、渡った人は煩悩の尽きた阿羅漢である。菩薩が行うべき法もこれと同じである。

施しをするときに、自分と、施しを受ける人と、施される物という三つの障害があるならば、その施しは魔の領域にあり、まだ諸々の災いを離れていないといえる。菩薩が施しをするときは、この三種に滞ることがなく、清浄であり、諸々の仏に誉め称えられる。これを「彼岸に至る」という。この六種の修行の完成(六波羅蜜)によって、人はもの惜しみや貪欲などの煩悩、執着の大海を渡り彼岸に至ることができる。だから彼岸に至る(波羅蜜)というのである。

問 3

阿羅漢や辟支仏も彼岸に至ることができる。どうしてそれを波羅蜜と言わないのか。

阿羅漢・辟支仏が彼岸に渡るのと、仏が彼岸に渡るのでは、名前は同じだが中身は違うのだ。阿羅漢・辟支仏は生死をこちらの岸として、涅槃を向こう岸とする。しかし、施しという彼岸に渡ることはできない。なぜなら彼らはすべての時に、すべての種類の施しを行うことができないから。たとえ施しを行うことがあったとしても、慈悲の心はなく、あるときは善でも不善でもない心で行い、あるときは煩悩と共にある善心で行い、あるときは煩悩を離れた心で施しを行うが、大いなる憐れみの心はなく、すべての人々のために施しを行うことはできない。一方、菩薩の施しは、施しが生じることなく、消滅することなく、煩悩を離れ、作られることがなく、それが涅槃のようであると知り、すべての人々のために施しをする。これを檀波羅蜜という。

次に、ある人は言う、「すべての物、すべての種類、内と外の物をすべて施して果報を求めない。このような施しを檀波羅蜜という」。

次に、尽きることがないから檀波羅蜜という。なぜなら、施す物は究極的には空であって、涅槃のようであると理解し、その心で人々に施すからである。それゆえに、施しの果報が尽きることがないことを檀波羅蜜という。五通仙人は宝物を石の中に隠し、宝を守るためにダイヤモンドを磨いて石に塗り、壊れないようにした。菩薩の施しもこのように、涅槃の真実の智恵によって施しを磨き塗り、これを尽きないようにする。

次に、菩薩はすべての人々のために施しを行う。人々の数は尽きることがないために、施しもまた尽きることがない。

次に、菩薩は仏の教えのために施しを行う。仏の教えは量りしれず、限りがないので、施しもまた量りしれず、限りがない。このような理由で、阿羅漢・辟支仏も彼岸に至るが、波羅蜜とは言わない。

問 4

「完成し、円満である(具足し満つ)」とはどういうことか。

先に説いたように、菩薩はすべての者に施し、内・外、大・小、多・少、粗・細、執着するもの・しないもの、必要なもの・必要でないものなど、種々のものをすべて捨て、惜しむことなくすべての人々に与えて、次のように考えない「徳のある人には与えるが、徳のない人には与えない。出家した人には与えるが、出家していない人には与えない。人々には与えるが、獣には与えない」。すべての人々に平等に施し、施して報いを求めない。そして真理を施すことができる。これを「完成し、円満である」という。

また、時間を気にせず、昼でも夜でも、冬でも夏でも、よいときでも悪いときでも、どんなときでも等しく施しを行い、心に悔いることも惜しむこともなく、頭目髄脳を施しても惜しむことはない。これを「完成し、円満である」という。

次に、ある人は言う、「菩薩は初めて道を求める心を起こしてから、菩提樹の下で知性と感覚の迷いを断つに至るまで、その中間を施しを完成して円満であるという」。

次に、第七地にある菩薩は、すべての現象の真実のあり方に関する智恵を得、仏の国土を美しく飾りたて、人々を教え導き、諸仏を供養し、神通力を得、一つの身体を分身させて無数の身体を作り出し、その一つ一つの身体から七宝でできたお香と花、幡や天蓋を雨のように降らせ、須弥山のように大きな灯火を作り出し、十方の仏と菩薩を供養する。また、妙なる声音で仏の徳を詩によって誉め称え、礼拝し、供養し、尊敬して迎えようとする。

またこの菩薩は、十方の限りない餓鬼の国の中で、種々の飲食物や衣服を雨のように降らし、それを充満させる。人々は満足すると、皆さとりの心を起こす。

また畜生の世界へ行き、畜生たちをお互いに傷つけ合わないようにさせ、心から恐怖をとり除き、それぞれの必要に応じて施してやる。彼らは満足すると、皆さとりの心を起こす。

地獄の量りしれない苦しみの中では、地獄の炎を消し、熱湯を冷まし、罪を止めさせ、心を善にさせて、飢えと渇きを除いてやり、天上や人間の世界に生まれるようにしてやる。

このような理由で、皆さとりの心を起こす。十方の世界の貧乏な者には財物を施し、富める者には珍しい食事や珍しいものを施し、喜ばせる。それゆえ、皆さとりの心を起こす。

欲天(欲望のある神々の世界)の中では、そこにいる神々に天上の欲望や快楽を捨てさせ、優れた教えという宝と楽しみを施し、彼らを喜ばせる。このために、皆さとりの心を起こす。

色天(物質的な神々の世界)の中では、快楽に執着するのをやめさせ、菩薩の瞑想によって彼らを楽しませる。このために、皆さとりの心を起こす。

このようにして菩薩は第十地に至る。これを「檀波羅蜜を具足し円満である」という。

次に、菩薩には二種類の身体がある。一つは迷いの行いによって生じた身体(結業生身)であり、二つは真理としての身体(法身)である。この二種の身体で施しの修行を完成させることを「檀波羅蜜を完成させる」という。

問 5

どのようにして、迷いの行いによって生じた身体で施しを完成するのか。

まだ真理の身体を獲得せず、煩悩の束縛が尽きていないときでも、すべての宝や頭目髄脳・国・財・妻子・内外の所有物を施し、心が動じない。

たとえば、スダーナ(好愛)太子は二人の子供をバラモンに施し、次に妻を施したが、心は動じなかった。


またサルヴァダー(一切施)王は、敵に国を滅ぼされ、林の中に隠れていた。そこに遠国からバラモンが来て、王に物乞いをしようとした。王は自分自身、国が破れ、家が滅び、一人で逃げ隠れている状態であるにもかかわらず、そのバラモンが遠くから来て何も持っていないのを憐れんで、言った、

「私はサルヴァダー王だ。新しい王は人々に呼びかけて、私を求めている」

そしてすぐに自分自身を縛り上げてバラモンに施し、新王に届けさせて、大いに財物を得させた。


次に、あるとき月光太子は、城から出て町の中を見て回っていた。らい病患者はこれを見て、車をさえぎって太子に言った、

「私の身は重い病で、苦しみ悩んでいます。それなのに太子は自分独りで遊んで楽しんでいます。憐れみと慈しみの心によって、私を治療し助けてください」

太子はこれを聞いて、医者たちに尋ねた。医者が言うには、

「生まれてから大人になるまで、一度も怒ることがなかった人の血髄を体に塗り、それを飲ませれば治るでしょう」

そこで太子は考えた、

「もし私が生をむさぼり、命を惜しんだとしても、何が得られるだろうか。私の身体を捨てるよりほかに、道を得る方法はない」

そこでチャンダーラに命じて肉を切り、骨を砕いて髄を取り出し、それを病人に塗り、血を飲ませた。


このように種々に自分の身体や妻子を施して惜しむことなく、草木を捨てるように捨ててしまう。施す物を観察して、それが原因が集まることで生じたものであることを知る。その実体を求めても得られず、すべてが清浄であり涅槃のようであると知り、一切のものが実体を持たないという認識(無生法忍)を得る。これを、迷いの行いによって生じた身体で檀波羅蜜を行ずるという。

では、真理を身体とする菩薩は、どのように檀波羅蜜を行ずるのか。菩薩は最後の肉体において、一切のものが実体を持たないという認識を得て、肉体を捨てて真理の身体を得る。あらゆる世界の中に変化して現れ、その世界にふさわしい方法で人々を教導し、種々の宝物や衣服、飲食をすべての者に施し、また頭目髄脳国財妻子内外の所有物をすべて施す。


たとえば、むかし釈迦牟尼仏は、六本の牙を持つ白象であった。狩人は隙を見て毒矢でこれを射た。すると象たちが競い集まり、その狩人を踏み殺そうとした。白象は身をもって彼を守り、我が子のように憐れんだ。象たちを諭して帰し、落ち着いて狩人に尋ねた「なぜ私を射るのか」と。狩人は「あなたの牙が欲しいのだ」と答えた。すると白象はすぐに六本の牙を石の孔に差し込み、力を込めて牙を折り、狩人に与えた。白象の身であっても、このように心を用いるのだから、これは畜生の行いとはいえない。阿羅漢の行いにはこのような慈悲の心はない。この象の行いは、真理を身体とした菩薩の行いである。


昔、世界の人々は有徳の人を尊敬することを知らず、言葉によって教えても、理解することはできなかった。そこで菩薩は変化して、カピンジャラ鳥となった。その鳥には二人の親友がいた。一人は大きな象、もう一人は猿であった。三人は菩提樹の下で一緒に暮らしていた。カピンジャラ鳥は二人に尋ねた、

「この中で誰が一番偉いだろうか」

象は言った、

「私は昔、この木を腹の下に隠して守ってやったことがある。そのおかげで、この木はここまで大きくなって、我々の住居となったのだ。だから、私が一番偉い」

猿は言った、

「昔、この木が若木だったころに、私は木の先端を引っ張って伸ばしてやったことがある。だから、私が一番偉い」

鳥は言った、

「私は菩提樹の林の中で木の実を食べ、糞に混ざって種が落ちて、この木が生じた。だから、私が一番偉い」

象が言った、

「先に生まれた者、長老をうやまい、敬意を表そう」

そして象は背中に猿を乗せ、鳥は猿の上にとまって歩き回った。獣たちは皆これを見て問うた、

「なぜそんなことをするのか」

象たちは答えた、

「こうして長老をうやまい、敬意を表しているのだ」

獣たちは教化をうけ、みな儀礼を守って田畑を荒らしたり、生物を殺したりしなくなった。人々は、獣が害を及ぼさなくなったことを怪しんだ。狩人が林に入ってみると、象が猿を背負い、その上に鳥をのせて敬意を表し、動物を教化して、動物たちはみな善を行うようになっていた。狩人は戻ってきて人々に伝えた、

「太平の世が来ようとしている」

鳥獣にすら仁があるなら、人々もこれにならって、みな儀礼を正すようになるだろう。古より現在まで万世にわたって人々を教化する。これを、真理を身体とした菩薩という。


次に、真理を身体とした菩薩は一瞬の間に変化して無数の身体を現し、十方の諸仏を供養し、一瞬の間に限りない財宝を作り出して人々に与え、すべての人々の求めに応じて一瞬の間に教えを説き、菩提樹の下に座る。このようなことを、真理を身体とする菩薩が檀波羅蜜の完成を行うという。

次に、施しに三種類ある。一つは物の施し、二つは奉仕と尊敬の施し、三つは教えの施しである。

物による施しとは何か。宝物、衣食、頭目髄脳などの内外の所有物すべてを施すことを、物による施しという。

尊敬による施しとは、信心が清らかであり、尊敬・礼拝・送迎・称讃・供養することを尊敬による施しという。

教えの施しとは、道徳のために議論し、経典を読み上げ、講義して人々の疑いを除き、質問に答え、人に五戒を授ける。このように仏の教えのために施すことを教えの施しという。この三種の施しが満ち足りていることを、壇波羅蜜の完成という。

次に、三つの原因が施しを生じる。一つは信心が清らかなこと。二つは財物、三つは福田である。

信心にはさらに三種類がある。憐れみと、尊敬と、憐れみかつ尊敬する心である。貧者や獣に施すのは憐みの施しであり、仏や真理を身体とする菩薩に施すのは尊敬の施しであり、年老い、病を患い、貧しい阿羅漢や辟支仏に施すのを憐れみと尊敬による施しという。

施す物が清らかであり、盗品でなく、強奪したものでなく、必要なときに施し、名誉を求めず、利益を求めずに施せば、あるときは心が清らかであることによって福徳を得る。あるときは福田によって功徳を得る。あるときは貴重なものを施すことによって功徳を得る。

心清らかに施すとは、慈悲喜捨の四等心や念仏三昧のように清らかな心で施したり、自分の身を虎に施すときのように、清らかな心で施すということである。これを「信心が清らかであることによって福徳を得る」という。

福田には二種類ある。一つは憐みの福田、二つは尊敬の福田である。憐みの福田は施すものに憐みの心を生じ、尊敬の福田は施すものに尊敬の心を生じる。アショカ王が土を仏に奉った故事のように。

次に、財物の施しに関しては、次のような話がある。あるとき一人の女人が、酒に酔って意識が混濁し、七宝でできた装飾品をカーシャパ仏の塔に施し、その功徳によって三十三天に生まれた。このような施しを財物の施しという。

問 6

檀を「財を捨てる」という。どうして「捨てることがないという方法で成就する」というのか。

檀に二種類ある。一つは出世間、二つは不出世間である。いまは出世間の檀に特定のあり方がないということを説くのである。特定のあり方がないから、捨てるということもない。それで「捨てることがないという方法で成就する」という。

次に、財物を得ることはできないから「捨てることがない」という。この物の未来と過去は空であり、現在のあり方には定まった形がない。それゆえ「捨てることがない」という。

次に、施しを行う者が財物を捨てるときに、心で「この施しには大きな功徳がある」と考える。これによって、高慢や執着や煩悩を生じる。菩薩の法はこれと異なり、捨てることがないから高慢が生じず、高慢がないために執着や煩悩が生じない。

次に、施す者に二種類ある。一つは世間の人、二つは出世間の人である。世間の人は財を捨て、さらに施しまで捨ててしまう。なぜなら、財物も正しい施しの心も、両方ともに得ることができないから。このことを「捨てることがないという方法で成就する」という。

次に、檀波羅蜜の中に「財物と施しと施しを受けるものの三者は存在しない」とある。

問 7

この三つの要素によって檀(施し)は構成されている。いま、その三者が存在しないとしたら、どうして「檀波羅蜜を成就し円満である」といえるのか。いまは財物あり、施しがあり、施しを受ける者がいる。どうして三者が存在しないだろうか。たとえば、施される毛織物は実在するものである。なぜなら、毛織物という名前があるから、名前に対応するものが存在する。毛織物というものがなければ、毛織物という名前は存在しないだろう。名前があるから、毛織物は実在する。

次に、毛織物には長いものがあり、短いものがあり、生地の粗いもの、細かいもの、白、黒、黄、赤のものなどがある。原因があり、条件があり、作られることがあり、壊れることがあり、効用があり、その存在によって心が動かされる。十尺を長いとし、五尺を短いとし、糸が太いのを粗いといい、糸が細いのを細かいという。染めると色が付き、糸を原因とし、織機を条件とする。これらの原因や条件が合わさって、毛織物ができる。人の働きによって作られ、人によって壊される。寒暑を防ぎ、身体を覆うことが効用である。これを貰った人は大いに喜び、これを失くした人は大いに悲しむ。これを人に施せば、福徳を得て仏道の助けとなる。これを盗み、強奪し、奪って辱めれば、死後は地獄に堕ちる。このような種々の理由から、毛織物が実在することを知ることができる。それなのに、どうして「施すものは存在しない」というのか。

あなたは「名前があるから、それは存在する」というが、そうではない。どうしてだろうか。

名前には二種類ある。一つは不実の名である。たとえば一本の草があり、「賊」という。賊草は盗みもせず、強奪もせず、実際には賊ではないけれども、「賊」という名前がついている。

また、兎の角や亀の毛なども、名前だけがあって実在しない。毛織物は兎の角や亀の毛と違って存在しないものではないが、しかし原因や条件が集まることで存在しているのであって、原因や条件が集まらなければ存在しない。また、林や軍隊などは名前だけで実体はない。たとえば、人形に人の名前を付けても、人間が存在するわけではない。それと同じく、毛織物には名前があるが、その実体があるわけではない。

毛織物は人の心的現象の原因となる。それを得れば喜び、失えば悲しむ。これが心的現象の原因である。心が生じるには二つの原因がある。実在するものから生じる場合と、実在しないものから生じる場合である。夢の中で起きた出来事や、水面に映る月、夜中に枝のない木を見て、人間と見間違えるような場合は、「実在しないものから心が生じる」という。この場合、心的現象の原因は実在しない。心的現象が生じているから、その原因も存在するとは言えない。

心的現象が生じるのは原因と結果の連なりによるのであって、そこから実在するものが得られるわけではない。水面の月を眼で見て、月の像が心に生じたから、そこに月が存在する、と言うようなものである。心に生じた月の像に対応して月が実在すると言えるならば、本当の月は存在しなくてもよいであろう。

次に、存在に三種類ある。一つは相待による存在、二つは仮名の存在、三つは因縁による存在である。

相待とは、長いものと短いもの、あっちとこっちのようなものである。実際には長いものも短いものもなく、あっちもこっちもない。相待によって名前だけがあるのだ。長いものは短いものに対して存在し、短いものは長いものに対して存在する。あっちはこっちに対して存在し、こっちはあっちに対して存在する。基準となるものが東にあればそこは西であり、基準となるものが西にあればそこは東である。なにも変化していないのに、あるときは東で、あるときは西である。この場合も名前だけで実体はない。このようなことを相待による存在という。この中には実在するものはなく、色や香りや味や触覚とは異なる。

仮名の存在とは何か。たとえばバターは、色、香り、味、感触が一体となることで仮にバターと名付けられている。存在といっても相待による存在とは異なる。

因縁による存在は、有るとも無いともいわれるが、兎の角や亀の毛のように存在しないのではない。原因や条件が共同して働くために、仮に存在するといわれる。バターや毛織物もこれと同じである。

次に、最小の色、香り、味、感触の要素がある。それらが集まって毛の要素があり、毛の要素があるから毛があり、毛があるから糸があり、糸があるから毛織物があり、毛織物があるから衣服がある。もし最小の色、香り、味、感触の要素がなければ、毛の要素もなく、毛の要素がなければ毛がなく、毛がなければ糸がなく、糸がなければ毛織物がなく、毛織物がなければ衣服がないことになろう。

問 8

必ずしも、すべてのものが原因と結果の集合によって存在しているわけではない。物質の最小の要素は極めて細かいために部分を持たない。部分がないために結合することはない。毛織物は大きいから壊すことができるが、最小の要素には部分がないから、壊すことはできない。

極めて小さいが実体はない。それにあえて名前をつけているだけだ。なぜなら、大小は相待である。大に対して小があるのだから、この小に対しても、さらに小さいものがあるはずだ。

次に、もし最小の色の要素(色の原子)があれば、必ず上下左右前後の方向を持つだろう。もし方向を持つのであれば、最小の要素とはいえないだろう。もし、それぞれの方向に対応する部分を持たないのであれば、色とはいえないだろう(たとえば、上に対応する部分は持つが、下に対応する部分は持たないというなら、上から見たときには色が見えるが、下から見たときには色が見えないことになる。それでは色の要素とはいえない、ということ)。

次に、最小の要素(原子)があるならば、それを区切る空間の部分があるだろう。部分があるならば、最小の要素とはいえない。

次に、もし原子があるなら、その中に色、香り、味、感触の部分があるはずだ。部分があるならば、原子とはいえない。以上のように原子を探求すれば、原子が存在しないことは明らかである。ある経にいう、「物質の大きいもの、小さいもの、内にあるもの、外にあるものを総合してみれば、それらは無常、無我である。原子があるとはいえない」。これを分破の空という。

また空を観察すれば、この毛織物は心にしたがって存在するといえる。座禅をする人は、毛織物を観察して、それを地の要素であると思い、水であると思い、火であると思い、風であると思い、青色であると思い、黄色であると思い、白色であると思い、赤色であると思い、またすべて空であると思う。十一切入の観察もこのように行う。

あるとき仏は霊鷲山に滞在していたが、僧たちと共に王舎城(ラージャグリハ、マガダ国の首都)に向かい、道の途中で大水を見た。仏は水の上で座具を敷いて座り、僧たちに告げた、「修行者が瞑想に入れば心は自在となり、大水を大地とすることができ、本当の大地となる。なぜなら、この水の中には土の要素があるからである。このように、水、火、金、銀や、種々の宝物を出現させることもできる。なぜなら、この水の中にそれらすべての要素があるからである」。

次に、一人の美女がいたとしよう。色好みの者はそれを見て清らかで美しいと思い、心がとらわれてしまう。不浄観を行じている人がそれを見ると、種々の醜さがあらわになり、一つも清らかなところがないことが分かる。同じ女を見ても、ある人はこれをねたみ、怒り、憎悪し、見ようともせず、不浄であるとする。色好みはこれを見て楽しみとし、嫉妬を抱くものはこれを見て苦しみとし、清浄な修行を行うものはこれを見て道を悟り、無余涅槃に入った人は、これを見て熱中することも嫌うこともなく、土木を見るようである。もし、この人の美しさが真実に清らかなのであれば、四種の人はみな清らかなものを見るはずであるし、もし真実に不浄なのであれば、四種の人はみな不浄なものを見るはずである。以上のことから、美醜は心の中にあるものであって、心以外の一定の原因があるのではないことがわかる。空を観察するということも、これと同じである。

次に、毛織物の中に十八種の空の様相がある。したがって、これを観察すれば空であり、空であるが故に存在しない。このような種々の理由で、財物は空であり存在しないことが確定された。


では、なぜ施す者が存在しないのか。毛織物の場合、それは原因や条件が合わさったために存在し、細かく追求すると存在しないものであることが分かる。施す者もまた同じく、四元素や空間の領域を身体とし、身体と意識が動き、行ったり来たりし、坐ったり立ったりするのを仮に人間と呼んでいるだけであり、細かく追求すると存在するとはいえないことが分かる。

次に、感官と感官の対象と認識と全ての心的作用の中に、自我は存在しない。自我が存在しないために、施す者も存在しない。なぜなら、自我には種々の名前がある。人、神、男、女、施す人、施しを受ける人、苦を受ける人、楽を受ける人、畜生などである。これらは名前があるだけで、実体は存在しない。

問 9

もし施す者が存在しないのであれば、どうして菩薩が檀波羅蜜を行うことがあるのだろうか。

原因と条件が合うから名前があるが、家や車のように実体は存在しない。

問 10

なぜ自我が存在しないのか。

それはすでに「如是我聞一時」の中で解説した。いま重ねて説こう。

仏は六種の認識(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識)を説いた。眼識と、眼識と共に生起する心作用は両方ともに色を認識し、家や建物、城、城郭などの種々の名前を認識しない。耳鼻舌身識も同様である。意識と、意識と共に生起する心作用は、眼を認識し、色を認識し、眼識を認識し、・・・心を認識し、心の対象を認識し、意識を認識する。この識が認識するものはみな空であり、無我である。それは生成消滅するものだから。自在でないから。また、作られたものではないもの(無為)の中にも自我が存在するとはいえない。なぜなら、苦楽を受けることがないから。もしもこの中に自我があるとすれば、第七の識があって自我を認識することになるだろう。しかし、今はそう説かれていない。以上のことから、無我であることが分かる。

問 11

どうして無我を知ることができるだろうか。すべての人は自分の中に自我が存在すると思い、他人の中に自我があるとは思わない。もしも、自分の中に自我がないのに、でたらめに自我があると考えているのだとすれば、他人の中に自我がない場合にも、でたらめに他人の中に自我があると考えることもあるだろう。

次に、もしも自分の内に自我がなく、色と色の認識とが瞬間ごとに生じては滅しているのだとすれば、何がそれを見て、これは青、これは黄、と分別しているのだろうか。

次に、もしも自我がなければ、現在生きている人の認識は、順次に生成消滅し、命が絶えるときには尽きてしまう。諸々の行いの罪福の果報は、誰に従い、誰が受け、誰が苦楽を受け、誰が解脱するのかだろうか。このような種々の理由から、自我が存在することが知られる。

これらのことには、それぞれ困難がある。

もし、他人の身体の中に自我があると思うことがあれば、このように言うべきだろう、「どうして自分自身の中に自我があると思わないのか」と。

次に、人間は五蘊の集合によって生じるために、空であって自我は存在しない。無明が原因となって、二十の自我に関する思い込みを生じる。これらの自我が存在するという見解は、五蘊の中から自然に次々と生じてくる。この五種の要素が原因となり、結果として生じたために、この五種の要素を自我と考える。他人の身体にはこのような関係はない。煩悩の余力が残っているせいである。

次に、もし魂があるならば、自我もあるだろう。いまあなたは、魂の有無をはっきりさせないまま、自我の存在を問題にしている。それは兎の角について尋ねる人に、馬の角に似ていると答えるようなものだ。馬の角が実在するならば、そこから兎の角を推測することもできるだろう。しかし馬の角すら存在しないのに、どうして兎の角のことが分かるだろうか。

次に、自分の内に自我があると考えるから、自分に魂があると考える。もしも魂は普遍的に存在するのだとすれば、他人の身体を自我であると考えてもよいことになるだろう。以上のことから、「自分自身の中には自我が存在すると考えられるが、他人の身体に自我があるとは考えられない。したがって、魂が存在することが分かる」と言うことはできない。

次に、ある人は、他の物の中に自我を生じることができる。ある外道の瞑想者は、地一切入の瞑想を行っているとき、大地を見てそれが私であると思い、私は大地であると思う。水・火・風・空間についても同様に観察する。誤った考えから、他の物の中に自我の存在を認める。


次に、あるときには、他人の身体の中に自我が生じることもある。ある人が遠くまで使いに行く途中で、一人で空き家に泊まった。すると夜中に鬼が現れ、一体の死人を担いできて、彼の前に置いた。さらに別の鬼が前の鬼を追いかけてきて、怒って言った、

「この死人は私のものだ。どうしてお前が持って行こうとするのだ」

前鬼は言う、

「この死人は私のものだ。私が自分で持ってきたのだ」

後鬼は言う、

「いいや、これは私が運んできたのだ」

二匹の鬼がそれぞれ死人の片手を取って言い争っていた。前鬼が言った、

「ここに人間がいる。こいつに聞いてみよう」

後鬼が尋ねた、

「この死人を担いできたのは誰だ」

この人は考えた、

「この二匹の鬼は強い力を持っている。本当のことを言っても殺されるだろうし、嘘をついても殺されるだろう。どちらにしても死ぬのであれば、嘘をついても仕方がない」

そして言った、

「前鬼が担いできた」

後鬼は大いに怒り、その人の手をつかんで引き抜いて地面に置き、前鬼は死体の腕を取って、その人に取り付けた。このようにして、両手、両足、頭、わき腹、胴体など、すべて取り替えてしまった。それから二匹の鬼は取り替えた人の体を食べ、口を拭って去っていった。

そこでこの人は考えた、

「私が父母からもらった身体は、眼の前で二匹の鬼に食い尽くされてしまった。今の私の身体は、すべて他人のものである。私には身体があるといえるのだろうか。それとも身体はないのだろうか。もしあるとしても、これはすべて他人の身体であるし、無いとしても、実際私には身体がある」

このように考えて、彼の心は狂人のように思い悩んでしまった。

翌朝、道を探して目的の国に辿り着いた。仏塔へ行き、修行僧たちに会って、他の話はせずに、ただ「自分の身体はあるのか、ないのか」と尋ねた。僧たちは聞いた、「あなたはどなたですか」と。彼は答えた、「私は自分が人間なのか、そうでないのか分からないのだ」。そこで彼は僧たちに、昨夜の出来事を詳しく説明した。僧たちは言った、

「この人はすでに無我を知っている。道を得るのもたやすいだろう」

そして彼に語った、

「あなたの身体は、はじめから自分のものではないのです。いま突然に、それが自分のものでなくなった訳ではありません。ただ四元素が集まることで身体が生じ、それを自我のよりどころだと誤って考えていただけです。あなたの元の身体も、今の身体と異なることはありません」

僧たちは彼を救い、仏の道に入れるために諸々の煩悩を断ち切らせた。そして彼は阿羅漢になった。

自我が存在すると考えるならば、他人の身体の中にも自我が存在すると考えねばならない。ゆえに、「彼と私の区別があるから、魂がある」とは言えない。


次に、魂なるものの本性は規定することができない。それには恒常性、無常性、自由であること、不自由であること、自らはたらくものであること、自らはたらくものでないこと、物質であること、物質でないことなど、どんな性質も与えることができない。もし何らかの性質を持つならば、それは存在するといえるし、どんな性質も持たないならば、存在するとはいえない。魂にはどんな性質も与えられないから、それが存在しないことが知られる。たとえば、魂が恒常性を持つならば、人を殺すことは罪ではなくなるだろう。なぜならば、身体は殺すことができるから恒常ではないし、魂は恒常であるから殺すことはできないゆえに。

問 12

魂は恒常であるから殺すことはできない。しかし、身体を殺すことは人を殺す罪である。

あなたは身体を殺すことが人を殺す罪だというが、戒律の中には次のようにある

「自殺は人を殺す罪ではない。罪福は他人を傷つけ、あるいは他人を利益することから生じる」

自分で自分を益するようなことをしたり、自分で自分を殺したりすることで福徳や罪が生じるのではない。したがって戒律では、

「自分自身を殺すことは人を殺す罪ではない。ただ愚かさ、貪欲、怒りという過ちがあるだけだ」

とされている。

もし魂が恒常ならば、死ぬこともなく、生まれることもない。なぜなら、あなたがたの考えによれば魂は恒常であり、五道の中に遍く満ちている。どうして生死があるだろうか。その場合、死を「ここからいなくなった」と言い、生を「あそこに現れた」と言うようになるだろう。以上のことから、「魂は恒常である」とはいえない。

もし魂が恒常ならば、苦楽を受けることもないだろう。なぜなら、我々は苦しみが来れば悲しみ、楽しみが来れば喜ぶ。これらの悲しみや喜びによって状態が変化させられるならば、恒常とはいえない。

もし魂が本当に恒常的なものであるなら、それは虚空のようなものであって、雨が潤すこともできず、熱が乾かすこともできない。また、現世も来世もなく、来世における生も現世における死もないことになろう。

また、もし魂が恒常ならば、常に自我という思いがあって、悟りが開けないだろう。

もし魂が恒常ならば、発生することもなく、消滅することもなく、忘れることもないだろう。実際には魂はなく、心に恒常性がないから、ものを忘れることがあるのだ。したがって、魂は恒常ではない。このような種々の理由から、魂には恒常性がないことが分かる。

一方、もし魂が無常なものであるなら、罪もなく福徳もないだろう。もし身体が無常であり、魂もまた無常であるなら、両者がともに消滅するとき(死ぬとき)には何も存在しなくなる、という虚無の考えに陥ってしまう。虚無の考えを受け入れるならば、来世において罪福の果報を受ける者もいなくなるだろう。そのような消滅によって涅槃を得ることができるならば、煩悩を断ち切る必要もなく、来世における果報の原因を作る必要もない。以上のような種々の理由から、魂が無常ではないことが分かる。

もし魂が自由であり、自らはたらく(自作)ものであるならば、欲しいと望んだものは全て手に入ることになるだろう。実際には欲しいものは得られず、欲しないものが手に入る。

また、もし魂が自由であれば、悪を行っても地獄に堕ちることもないだろう。

次に、(もし魂が自由であれば、)すべての人は苦しみを求めず、楽しみを好むのだから、どうして苦しみを受けることがあろうか。それゆえに、魂は自由ではなく、また自らはたらくのでもないことが知られる。

また、人は罪を怖れて、無理に善を行おうとする。もし魂が元々自由なものであれば、どうして罪を怖れて無理に善を行おうとするだろうか。

また諸々の人々は、意のままに生きることはできず、常に煩悩や執着の束縛によって繋がれている。このような理由で、魂は自由ではなく、自らはたらくものでもないことが分かる。

もし魂が自由ではなく、自らはたらくものでもないとすれば、それは魂とはいえないだろう。それは魂ではなく意識作用(認識の一種)であって、それならば何の問題も生じない。

次に、もし魂が自らはたらかないならば、どうして閻魔王が罪人に向かって「誰がこの罪を為したのか」と尋ねたときに、罪人が「これは私の犯した罪です」と答えるのだろうか。これによって、魂は自らはたらかないものではない、ということが分かる。もし魂が物質ならば、そうは言えないだろう。なぜならすべての物質は無常であるから。

問 13

「物質こそが自我である」と言う人がいるのは何故か。

ある人は言う、

「魂は心の中にあり、芥子粒のように微小で、清浄である。これを浄色身という」

また、ある人は言う、

「麦のようである」

「豆のようである」

「一寸の半分」

「一寸であり、身体が生まれるとき、一番初めに存在するものである。例えば象の骨格のようなものである。骨格だけでもすでに重々しく立派であり、そこに肉付けされて象になる。それと同様である。」

「人によって大小は異なるが、死んだときに現れる」

このような諸説はみな誤りである。なぜなら、すべての物質は四元素によって構成されていて、原因と条件が合うときだけ存在し、実際には無常なものだから。もしも魂が物質ならば、物質は無常であるから、魂も無常であろう。もし無常であれば、上に述べたのと同様の誤りに陥るだろう。

問 14

身体に二種類がある。粗身と細身である。粗身は無常であるが、細身は魂と呼ばれ、人が死ぬと抜け出て、五道の中を巡って次の身体に入る。

細身は存在しない。もし細身があるなら、身体のどこかの場所に存在しているはずである。しかし、四臓五体のどこを調べても細身は見つからない。ゆえに存在しない。

問 15

細身は微細であって、死んでしまうとすぐに去り、生きている間は微細すぎて見つけることができない。だから見つかるはずはないのだ。また、この細身を五感によって見ることはできない。ただ仙人の神通力によってのみ、見ることができる。

そうであれば、存在しないのと異ならないだろう。人が死ぬときは生陰を捨てて中陰に入る。このとき現世の身体は消滅し、中陰の身体を得る。これは全く同時に起きる。現世の身体が消滅するときに、同時に中陰の身体を得るのだ。

例えば、蝋印を使って泥に印を押すときに、印が押されると同時に、蝋印そのものは壊れてしまう。泥に印ができるのと、蝋印が壊れるのは同時であって、前後しない。それと同様に、生陰を捨てるのと中陰を受けるのは同時である。その後、再び中陰を捨てて生陰を受ける。あなたの言う細身とは、この中陰のことであろう。中陰は身体に入ることも出ていくこともない。たとえば灯火を燃やしている間、炎は生成・消滅を続けているので、存在し続けているともいえず、途中で途切れているともいえない。仏は次のように言う、

「身体を構成するすべての物質は、過去のものも、未来のものも、現在のものも、内のものも、外のものも、粗いものも、細かいものも、すべて無常である。あなたが魂だという微細な物質もやはり無常であって、いずれ消滅するものである」

以上の理由から、魂は物質ではなく、物質でないものでもないことが分かる。物質ではないものとは、四種の精神的要素(感覚、表象、意志、認識)と、作られたのではないもの(無為)のことである。四種の精神的要素は無常であるために、また自由ではないために、原因と条件が合わさって生じたものであるために、魂とはいえない。空間・涅槃・原因のないもの、という三つの作られたのではないもの(無為)の中に魂があるともいえない。魂に相当するものがないから。このような理由で、魂は物質ではないともいえない。

このように天地の間に、身体の内にも外にも、過去・現在・未来においても、すべての方向を探しても、魂は存在しない。ただ感覚とその対象とが合わさることで認識が生じ、感覚とその対象と認識が合わさることを接触といい、接触から感受・表象・思考などの心作用が生じるだけだ。無明のゆえに、これらの心のはたらきの中に自我と自分の身体が存在すると思い込み、自我があるから魂もあるのだと考える。この自我という思い込みは、苦しみという真理を知る智恵を得ればなくなり、自我という思いがなくなれば、魂があるとも思わなくなる。


次に、あなたは先ほど「もし魂がなければ、認識は瞬間ごとに生成消滅を繰り返すのだから、だれが青・黄・赤・白色を区別するのか」と言った。

たとえあなたの言うように魂があるのだとしても、魂だけではものを認識することはできない。視覚認識という心のはたらきがあって、初めてものの色を知ることができる。そうであるならば、魂の存在は不必要である。

視覚認識は色を判別し、色の生成消滅は物質の生成消滅に対応している。そのとき心の中に、ものの存在という思いが生じる。この思いは作られたものであって、消滅し過ぎ去るものではあるが、ものを認識することができる。聖者は智恵の力によって未来のことを知る。この思いもそれと同じで、過去の存在について知ることができる。もし、先に生じた視覚認識が消滅し、次の視覚認識が生じれば、次の視覚認識が力を持つことになる。物質の色は瞬間だけ存在するものであって持続しないが、認識されれば、心はそれを把握することができる。このように、認識作用は瞬間ごとに生成消滅をくり返すのであるが、色を分別して知ることができる。


次に、あなたは「現世の人の心は瞬間ごとに生成消滅し、命が尽きるときに一緒に終わる。ならば、諸々の行いの罪福の果報は誰に従い、誰が受けるのか。誰が苦楽を受け、誰が解脱するのか」と言った。

いま答えよう。あなたはまだ真理を理解していない。人間は諸々の煩悩に心を覆われ、様々な果報の原因となる業を作る。人が死ぬとき、五陰の相続から次の五陰が生じることは、例えば、一つの灯火によって、次の灯火に火を点けるようなものである。

また、穀物が芽を出すのには、三つの原因が必要である。土と、水と、種子である。次の身体が生じるときもそれと同様である。身体があり、不浄の行いがあり、煩悩がある。この三つの原因によって、次の身体が生じる。この中で、身体と行いという原因を断ち切ることはできない。ただ諸々の煩悩だけを断ち切ることができる。煩悩が断たれたときは、身体や行いが残っていても解脱することができる。種子と土があっても、水がなければ芽は生じないようなものである。

このように、身体と行いがあっても解脱はできる。執着と煩悩の水が種を潤すことがなければ、芽は生じない。これを「魂がないとしても、解脱は可能である」という。無明のゆえに縛られ、智恵によって解かれる。魂は不要である。

次に、名称と形態(名色、心と体。心は目に見えず、言葉の上でしか存在しないので、名称と呼ばれる)の結合を仮に人と名付けている。人間は諸々の煩悩に縛られているが、清浄な智恵という爪によって、諸々の束縛を解く。このときに解脱を得たという。縄を結び、縄を解くようなものである。縄は煩悩である。煩悩は他になく、世界の中に縄が結ばれ、縄を解くことを教える。名称と形態も同様である。名称と形態の二つが結合したものを仮に人と名付けている。煩悩は名称と形態と異なることなく、ただ「名称と形態を結び、名称と形態を解く」と言うだけだ。

罪福の果報を受けるのも同様である。どんな業も人間の実体であるとはいえないが、名称と形態によって罪福の果報を受け、人間と呼ばれるものが現れる。たとえば、車に載せられるものの中には、車の実体はない。しかし車は「物を載せるもの」と言われる。人が罪福の果報を受けるのもこれと同様であり、名称と形態、罪と福の果報を受けて、人間と呼ばれるようになる。苦楽を受けるのも同様である。このような種々の理由で、魂は存在しない。

ここで魂について述べられたことは、施す者にとっても、施しを受ける者にとっても同様である。あなたは魂を人間であるとしている。したがって(いま明らかにされたように魂は存在しないのだから)、施す人も存在せず、施しを受ける人も存在しない。

このような種々の理由によって、「財物・施す人・施しを受ける人は存在しない」といえる。

問 16

諸々の仏はありのままに真理を説いた。(彼らの言うとおりに、)諸々の事象に否定されるべき性質はなく、消滅すべき性質はなく、生成すべき性質はなく、求められるべき性質がないのならば、どうしてあなたは財物・施す者・受ける者の三者を否定して、存在しないというのか。

凡夫は施す者を見、受ける者を見、財物を見る。これを倒錯した、誤った認識という。世間に生まれて安楽を受け、福徳が尽きれば元の場所へ帰る。(彼らの得る福徳ははかないものである。)そこで仏は、菩薩に真実の道を行い、真実の果報を得させようとしたのだ。真実の果報とは仏の道である。

仏は誤った認識を変えさせるために、三者は存在せず、否定されるべき本性がないと言ったのだ。なぜなら諸々の現象は、その根本からいって究極的には空であるのだから。このように、仏がどのような方法で教えを説くか、という種々の理由は量り知れず、知りがたい。それ故に、「檀那波羅蜜を完成し、成就する」という。


次に、菩薩が施しの修行を完成させ、それによって六種の修行を完成させることができれば、それを「檀那波羅蜜を完成し成就する」という。

1. なぜ施しが檀那波羅蜜を生じるのか

施しに上中下の区別がある。下から中が生じ、中から上が生じる。

飲食物や粗末な物によって、軽い心で施しを行うことを下の施しという。

施しを重ねて熱心さが増し、衣服や宝物を施すようになれば、それを下の施しから中の施しが生じるという。

施す心が強くなり、執着したり惜しんだりすることなく、頭目血肉国財妻子の全てを施すようになれば、これを中の施しから上の施しが生じるという。


次のような話がある。むかし釈迦牟尼仏が、初めて道を志したときのことである。そのとき菩薩は大国王であり、光明という名前だった。仏の道を求めて少量・多量の施しを行い、死後生まれ変わって陶工となった。そして入浴の道具や蜜の飲み物を他の仏や修行僧に奉げた。その後、生まれ変わって大長者の娘となり、灯を憍陳若(カウンディニャ)仏に奉げた。このような種々の施しを菩薩の下の施しという。

さて釈迦牟尼仏はその後、長者の子となり、衣を大音声仏に奉げた。その仏が入滅した後に、九十の塔を建立した。その後、大国王に生まれ変わり、七宝で飾った傘を師子仏に奉げた。その後、大長者に生まれ変わり、妙因仏に上等な家屋と七宝でできた美しい華を奉げた。このような種々の施しを菩薩の中の施しという。

その後、釈迦牟尼仏は仙人に生まれ変わった。彼は憍陳若仏の姿かたちやしぐさが立派なのを見て、高山の上から仏の前に身を投じた。彼の身体は無事で、仏に向かって立っていた。また衆生善見菩薩は、自分の身体を灯火とし、日月光徳仏に奉げた。このように種々の方法で身命を惜しまずに諸々の仏を供養することを、菩薩の上の施しという。以上を、菩薩の三種の施しという。


以上のように、初めて道を求める心を起こしてからずっと、衆生に施しを行う。初めは飲食物を施し、施す心が強くなると自分の肉体を与えるようになる。まず種々の汁物を施し、施す心が強くなると自分の血を与えるようになる。まず紙や墨、経書を施し、衣服、飲食物、薬、臥具の四種の必需品を僧侶に奉げ、その後、真理の身体を得て、無量の人々のために種々の教えを説き、教えの施しを行う。このような種々の事情を、「施しの完成から施しの完成を生じる」という。

2. どのように菩薩の施しが持戒の完成を生じるのか

菩薩は次のように考えて施しを行う。人々は施しを行わないために、生まれ変わった後に貧乏になる。貧乏であるから、強盗や盗みを行おうという心が生じる。強盗や盗みを行うから、殺人を犯す。貧乏であるから色欲に満足することがなく、満足できないから姦淫を犯す。また貧乏のために人にさげすまれ、さげすまれているために、不安や怖れから嘘や偽りを言うようになる。このように貧乏であることから、十種の不善の行いをしてしまう。

一方、もし施しを行うならば、生まれ変わって後、財物があり、財物があるから法を犯すことをしない。なぜなら感覚的な欲求が充足して、不足することがないからである。


ダイバダッタは、過去生において蛇であった。彼は一匹の蛙と一匹の亀と共にある池に住み、親しく暮らしていた。だがあるとき、池の水が干上がってしまった。飢えが極まり困り果てたが、訴える相手もいなかった。そこで蛇は、亀を使いに出して蛙を呼びつけた。蛙は詩を作って亀に返事をした、

『貧乏になれば本の心を失い、義理を考えずに食欲を満たすことを優先する。亀よ、私の言葉を蛇に伝えよ。私は決してあなたのそばに近寄らない』

施しを行えば後世に福を得る。窮乏することがないので、戒律を保って悪を行うことがない。このことを「施しは持戒の完成を生じる」という。


次に、施しを行えば戒律を破ることが少なくなり、煩悩が薄まり、戒律を保とうとする心がますます堅固になる。これを、施しは戒律を保つ原因となるという。

次に、菩薩が施しをするときは、いつでも施しを受ける者に対する慈悲の心が生じ、財物に執着せず、自分の所有物を惜しまず、ましてや盗みを働くことなどありえない。施しを受ける者に対する慈悲があるのだから、どうして人を殺そうなどと思うだろうか。このように、戒律を破ることを妨げることを、施しは持戒を生じるという。

施しを行うことができれば、もの惜しみする心を克服し、その後、持戒や忍耐などの修行を行うことが容易になる。


文殊師利は、久遠劫の昔の過去世において修行僧であった。彼は城に入って托鉢をし、鉢に百種の歓喜丸を貰うことができた。城中で一人の子供がつきまとい、これを求めたが与えなかった。やがて寺院に着くと鉢から二粒をつかみとり、次のように言った、

「もしあなたが一粒を食べ、もう一粒を修行僧たちに施すならば、これをあげよう」

その子は頷き、一粒の歓喜丸を僧たちに施した。その後、文殊師利の下で戒を受け、道心を起こして仏となった。このように、施しをする者は戒を受け、道心を起こして仏となる。これを「施しは持戒の完成を生じる」という。


次に、施しの果報として、修行者は四種の必需品を人々から奉げられる。そのように、国で評判の良い僧侶は窮乏することがなく、それ故に戒律を保つことができる。

また、施しの果報として心が柔和になる。心が柔和であるから戒律を守ることができ、戒律を守ることができるから、不善の行いを前にして自らの心を制することができる。このような理由で、施しから持戒の完成が生じる。

3. どのように施しは忍耐の完成を生じるのか

菩薩が施しを行うとき、施される人に逆に罵られ、あるいは過大な要求をされ、あるいは時を選ばずに要求され、あるいは求めるべきでないものを求められる。このとき菩薩は自ら考える、

「私はいま施しを行い、仏の道を求めようとしているのに、この人は私に施しを行わせない。私は自分のために、どうして怒りを生じようか」

次に菩薩は、施しを行うとき、施しを受ける者が怒り、悩むことがあれば、自問する、

「私はいま内と外の財物を施し、捨て難いものを捨てている。どうしてその甲斐がないからといって、忍耐できないことがあるだろうか。私が忍耐しなければ、施しという行為が不浄なものになってしまう。たとえば、白象が池に入って体を洗い、出て来てからまた土を身体に塗りつけるようなものである。施して忍耐できないこともこのようである」

このように考え終わって忍耐を生じる。このような種々の理由から、忍耐の修行の完成を生じる。

4. どうして施しは精進の完成を生じるのか

菩薩が施しを行うときは、常に精進の修行を行っている。なぜなら菩薩が初めて道心を起こすときは、まだ功徳が大きくはない。そのときに二種類の施しを行って、すべての人々の願いを満足させようと考える。努力して財物と教えを求め、足りない者に与えるためである。


釈迦牟尼仏は前世において偉大な医者の王となり、すべての病を治して名声や利益を求めず、ただ人々を憐れむためにこれを行った。しかし病人は非常に多く、力を尽くしても全てを救うことができなかった。それを悲しんでもどうにもならず、悩み苦しんでいたが、死して後、忉利天に生まれた。そこで自問した、

「私はいま天に生まれて、ただ福徳の果報を味わっているが、これでは人々のためにならない」

そこで自ら方法を考え、身体を滅ぼして天の命を捨て、サーガラ竜王の宮殿に生まれ、竜王の王子となった。身体は大きく、父母に愛されるようになった。しかし、自分から死のうとして、ガルダ鳥のそばへ行った。鳥はこの竜の子を取り、シャーバリ樹の上で呑み込んだ。父母は泣き叫び慟哭して悩み苦しんだ。

しかし竜の子は既に死に、人間の世界に生まれ変わって、大国の王子となっていた。能施という名前だった。生まれてすぐに言葉を話し、左右の臣下たちに尋ねた、

「この国の中にどんな財物があるか。すべて持って来て施しなさい」

人々は怖れ、皆この子供を捨てて逃げてしまった。母だけは、憐れんでその子供を守った。その母に語った、

「私は悪鬼ではない。人々はどうして逃げるのか。私の宿命は施しを好むことである。私はすべての人々の施主となろう」

母がその言葉を聞いて人々に伝えると、みな戻ってきた。

母はしっかり養育したので、王子は順調に成長した。彼は自分の持ち物をすべて施し、さらに父王のところへ行って物をねだり、それをまた施した。父が王子に分けて与えると、またそれを施し尽くした。世界の人々が貧しく、苦しんでいるのを見て施し与えようとしたが、財物が足らず、泣き叫び、人々に問うた、

「どのようにすれば、すべての人々を富について満足させられるだろうか」

諸々の客人はこう答えた、

「私たちは以前、聞いたことがあります。如意宝珠というものがあって、この珠を得ることができれば、心が欲するままに何でも手に入ります」

菩薩はこれを聞くと父母に言った、

「大海に入って、竜王の頭上にある如意宝珠を手に入れたいのです」

父母は答えた、

「私たちには、子供はあなた一人しかいません。海の中に入れば、様々な困難があるでしょう。もしあなたがいなくなってしまったら、私たちは何のために生きればよいのでしょう。だから、行ってはいけません。まだ蔵の中には物があります。それを使いなさい」

子供は言った、

「蔵の中身には限りがあり、私の意志には限りがありません。私は、財物をすべての人々に行き渡らせ、足りないことがないようにしたいのです。私の願いを許してください。本心を遂げて、世界中の人々を全てに満足させたいのです」

父母はその志が大きいことを知って、無理に留めることはせず、とうとう行かせてしまった。このとき五百人の商人が、彼の功徳が大きいことを知って、一緒に行きたいと願い、出発の日に海の入り口に集まった。菩薩は人々に尋ねた、

「誰か竜宮へ行ける海の道を知っている者はいないか」

陀舎という一人の盲者がいた。彼はかつて七回海の中に入り、海の道をよく知っていた。菩薩は一緒に来るように命じた。すると、

「私は年老いて両目が見えなくなってしまいました。以前はよく海に入っていましたが、今はとてもできません」

菩薩は彼に語った、

「私が行こうとしているのは、自分のためではない。すべての人々のために如意宝珠を求め、人々に与え、貧乏することがないようにして、それから仏の道によって、彼らを教え導くためにするのだ。

あなたは智者である。どうして断ることができるだろうか。私の願いを叶えられるかどうかは、あなたの力にかかっているのだ」

陀舎はそれを聞いて喜び、同じ思いを抱いて菩薩に言った、

「あなたと共に大海に入りましょう。もし私が途中で倒れたならば、私の死体を金色の砂でできた島の上に安置してください」

旅の一行がみな集まり、縄を切ると、船は走るように進み、様々な宝で満ちた港に着いた。商人たちは競うように七宝を取り、それぞれみな満足してしまった。そして菩薩に語った、

「あなたはどうして取らないのですか」

菩薩は答えた、

「私が求めているのは如意宝珠である。これは尽きることがあるものだから、私には必要ないのだ。あなたたちは満足するだけ取ったら、そこでやめなさい。船を重くするようなら、ここで立ち去りなさい」

そこで彼らは礼を言って去っていった。陀舎はこのとき菩薩に語った、

「ここに船を置いて、別の道を進みましょう。七日間風を待って港の南岸を進むと、ある危険な場所に着きます。その絶壁にいばらの林があります。枝は海を覆い、大風は船を吹き動かして転覆させてしまうでしょう。あなたはいばらの枝をよじ登り、助かることができます。しかし私は目が見えないので、そこで死ぬでしょう。その崖を過ぎると金色の砂でできた島があるので、私の身体はその砂の中に置いてください。金砂は清浄です。これが私の願いです」

すると、その言葉のとおりに風が吹き、絶壁に辿り着いた。陀舎の言葉どおりだった。菩薩はいばらの枝をよじ登り、自分は助かったが、陀舎はやはり死んでしまった。陀舎の屍を金砂の上に安置して、自分独りで先に進んだ。

その先の道も教えられた通りであった。深い水の中を浮かんで進むこと七日、喉までつかる水の中を進むこと七日、腰までつかる水の中を進むこと七日、膝までつかる水の中を進むこと七日、泥の中を進むこと七日、蓮華の花が鮮やかに清らかに咲きほこる場所に来た。そこで彼は考えた、

「この華は柔らかくもろい。虚空三昧に入ろう」

自分の身体を軽くして、蓮華の上を進むこと七日、様々な毒蛇のいる場所に来た。そこで彼は考えた、

「毒のある生き物は恐ろしい」

そこで慈心三昧に入って毒蛇の頭上を進むこと七日、蛇はみな頭を上げて菩薩に示し、菩薩はその上を踏んで進むことができた。

この難所を過ぎると、宝石でできた七重の城が見えてきた。そのまわりに七重に堀がめぐらされ、堀の中には毒蛇が満ち、二匹の巨大な竜が門を守っていた。竜は菩薩の容姿が端正で、見た目に威儀があり、様々な困難をのりこえてやって来たのを見て、考えた、

「これは普通の人ではない。きっと大功徳のある菩薩にちがいない」

そこで道を開けて、彼を城の中に入らせた。

竜王の夫婦は子供を失ってまだ間もなく、とりわけ嘆き悲しんでいた。菩薩が来るのを見たとき、竜王の妻には神通力があったので、それが自分の子供であることを悟り、乳房から乳が流れた。彼を座らせて尋ねた、

「あなたはかつて私の子供だったのです。それが私を捨てて死んでしまいました。今度はどこに生まれたのですか」

菩薩の方も自分の過去世を識り、彼らが過去世において父母であったことを知った。そこで母に答えた、

「私は人間の世界に生まれ、大国の王子となりました。貧しい人々が飢えや寒さに苦しみ、自由にならないのを憐れんで、如意宝珠を求めてここに来ました」

かつての母は言った、

「あなたの父の頭上に宝珠があります。首飾りにしていて、手に入れることは難しいでしょう。しかし、きっとあなたを連れて宝の蔵に入り、あなたの欲しいものを何でもあげようと言うでしょう。あなたはこう返事をしなさい。他の宝は要りません、ただ大王の頭上にある宝珠が欲しいのです。もし憐みたもうならば、私にお与えください、と。そうすれば手に入るでしょう」

そして父のもとへ行った。父は喜び悲しむこと限りなく、子供が苦労して遠くからやって来て辿り着いたのをいたわり、素晴らしい宝物を指し示し、

「あなたが欲しいものを与えよう。思いのままに取りなさい」

と言った。菩薩は答えた、

「私が遠くから来たのは、大王にお会いして、王の頭上の如意宝珠を手に入れるためです。もし憐みたもうならば、私にお与えください。それを頂けなければ、他のものも要りません」

竜王は答えた、

「私にはこの一つの宝珠しかなく、これを首飾りにしているのだ。人間は福が薄く卑しいから、見ることはできない」

菩薩は言った、

「私はこのために様々な苦難をのりこえ、死の危険を冒して遠くまで来ました。人間たちは福が薄く貧しいので、如意宝珠によってその願いを叶え、その後に仏の道によって教え導こうと思うのです」

竜王はついに宝珠を与えて言った、

「今この宝珠を与えよう。しかし、あなたが世を去るときには私に返しなさい」

菩薩は答えた、

「慎んで王の言うとおりにしましょう」

菩薩は宝珠を得ると虚空に飛び上がり、腕を曲げ伸ばしするくらいのわずかな時間で人間の世界に戻った。

彼の人間の父母は、子供が無事に帰って来たのを見て、踊りあがって喜び、抱き合いながら尋ねた、

「あなたは何を手に入れたのですか」

それに答えて、

「如意宝珠を得ました」

「それはどこにあるのですか」

「この服のポケットの中にあります」

「ずいぶん小さいんですね」

「神力があるからといって、大きいわけではないのです」

そして父母に告げた、

「城中の内と外を掃き清めさせ、香を焚き、絹の旗飾りを懸け、心身を清めて受戒を行おう」

明くる朝、大きな木を立てて目標とし、宝珠をその上に置いた。菩薩はこのとき誓願を立てた、

「もし私が仏道を成就し、すべての人々を救うならば、きっと私の願いのままにすべての宝物が現れ、人々の必要とするものがすべて備わるようになるだろう」

そのとき黒雲が空を覆い、種々の宝物、衣服、飲食物、臥具、薬湯を雨のように降らし、人々の必要とするものがすべて備わり、命が尽きるまで絶えることがなかった。このようなことを、菩薩の施しが精進の完成を生じるという。

5. どうして菩薩の施しが瞑想の完成を生じるのか。

菩薩が施すときは、もの惜しみと貪りの心が除かれる。もの惜しみと貪りの心が除かれ、施しの修行を一心に行えば、しだいに五種類の心の障害(五蓋)が除かれる。五種類の心の障害を取り除くことを瞑想という。

次に、心は施しによって、初禅から滅定禅に至る全ての瞑想を獲得する。どうして施しによるといえるのか。瞑想の修行をする人に施すときには、次のように念じる、「私はこの人が瞑想をしていることによって、清らかな心で供養できる。どうして私自身も瞑想をしないでよいだろうか」。そこで自ら心を調えて、思いをこらして瞑想を行う。

貧しい人に施すときは、次のように宿命について考える。「この人は前世において、諸々の善くないことを行い、一心に善を求めず、幸福のもととなる行いを学ばなかったために、今世において貧乏となったのだ」。そして自ら努めて善を学び、一心に集中して瞑想に入る。


これに関して、次のように説かれている。喜見転輪聖王の王宮には、八万四千の小王が来朝し、みな七宝の宝物を持参して献上した。王は言った、

「私には必要ない。あなたがたは、それぞれ自分のために福徳を積みなさい」

諸王は考えた、

「大王は自分から要らないと言っているが、私たち自身にも必要のないものだ」

そこで一緒に工事をして、七宝づくりの御殿を建て、七宝づくりの並木を植え、七宝づくりのプールを作り、御殿の中に八万四千の七宝づくりの高楼を建て、楼の中に七宝の寝台をつくり、様々な色の枕を寝台の両側に置き、絹の旗飾りをかけ、香を地面に塗った。様々な準備が終わって、大王に申し上げた、

「どうか御殿、宝樹、プールを受領ください」

王は黙ってこれを受領し、考えた、

「私が共に新しい御殿に入って、自分で楽しむのは良くない。まず諸々の修行僧やバラモンなどの善人を入らせてもてなし、その後で私が入ることにしよう」

そして善人を集めて宝殿に入れ、種々にもてなし、非常に満足させた。人々が立ち去ると王は宝殿に入り、金の楼に昇り、銀の床に座った。そして施しに思いをこらして、五種類の心の障害を除き、五つの感覚器官を調え、六種の感官の対象を退け、喜楽を受けて初禅に入った。
 次に銀の楼に昇り、金の床に座って、第二禅に入った。
 次に琉璃の楼に昇り、水晶の床に座って、第三禅に入った。
 次に水晶の楼に昇り、琉璃の床に座って、第四禅に入った。

独りで座って瞑想を続け、三ヶ月が経った。玉のような王女たちと宝のような后が八万四千の侍女たちと共に、みな身体を白珠、宝石、首飾りで飾って、大王の下に来て申し上げた、

「長い間、親しくお会いできなかったので、無理に来てお尋ねします」

王は告げた、

「私の妹たちよ、それぞれ心を正しく持ちなさい。私の理解者となり、仇にならないでくれ」

王女や后は涙を流して言った、

「大王よ、どうして私たちを妹と呼ぶのですか。何か私たちに話していないことがあるのですね。その心をおっしゃって下さい。どうして理解者となり、仇となるなと命じるのですか」

王は告げた、

「もしあなたが私と共に、世間の習いとして欲を満たし、それを楽しもうとするならば、それを仇というのだ。もし世間の常識どおりではないことを覚悟し、身体が幻のようなものであることを知り、福徳を積んで善を行い、欲望を断ち切れば、それを理解者というのだ」

このように説いて、それぞれを帰らせた。

女たちが出ていくと、王は金の御殿に昇り、銀の床に座って慈しみの瞑想を行い、銀の楼に昇り、金の床に座って憐みの瞑想を行い、琉璃の楼に昇り、水晶の床に座って喜びの瞑想を行い、水晶の楼に昇り、琉璃の床に座って平等心の瞑想を行った。このようなことを、菩薩の施しは瞑想の完成を生じるという。

6. どうして菩薩の施しは智恵の完成を生じるのか

菩薩が施しをするときは、この施しには必ず果報があると知って疑いを持たず、無知や誤った考えを捨てる。これを、施しは智恵を生じるという。

次に、菩薩が施すときは、物事を分別できるようになる。たとえば戒律を守らない人が、人をむち打ち、強盗、監禁し、法をゆがめて財を得て、施しを行うとしよう。その人は、象や馬や牛に生まれ変わり、畜生となって重い荷を負い、むちで打たれ、上に乗られ、くつわをはめられるが、常に居心地の良い屋舎と上等な餌を与えられ、人に大切にされて、人に奉仕するようになることを知る。

またもし悪人がいて、怒ることが多く、心が歪んで正しくない者が施しを行うならば、竜として生まれる。そして七宝の宮殿や素晴らしい食事や好ましい容姿を得られることを知る。

またおごり高ぶり傲慢で、怒りが多い人が施しをすれば、ガルダ鳥として生まれる。そして常に自在となり、如意宝珠を飾りとし、種々の必需品が望むままに手に入り、思うままにならないことがなく、どんなものにも変化できて、知らないことがないようになることを知る。

また大臣や官吏で、人民を道理に背いてしいたげ、法に従わない人が、獲得した財物を施しに用いれば、鬼神の境界に堕ち、クムバーンダ(鳩槃茶鬼)となる。そして、種々に感覚の対象を変化させて自ら楽しむようになることを知る。

また怒りが多く、心がねじれて残酷で、酒や肉を好む者が施しを行うならば、地行の夜叉として生まれる。そして常に種々の物質的な楽しみや音楽、飲食物を手に入れることを知る。

また、頑固で暴力的な人が車や馬を施し、人が移動するのを助けるならば、虚空の夜叉として生まれる。大きな力があって、風のようにどこへでも行けるようになることを知る。

またねたみが強く、争いを好む人が舎屋や寝具、衣服、飲食物を施すならば、宮観飛行の夜叉として生まれ、種々の娯楽や必需品を得ることを知る。

このように種々に施しを行うときに、その果報についてよく理解して知ることができる。これを、菩薩の施しは智恵を生じるという。

次に、飲食物を施すならば、身体や能力、生活が安楽であり、満たされているようになる。衣服を施すならば、次に生まれたときに自らの行いを恥じることを知り、威儀があり、折り目正しく、心身が安楽となる。家屋を施したならば、種々の七宝でできた宮殿を得、自然にひとりで五感の対象を楽しむようになる。

池や泉、種々のおいしい飲み物を施すならば、次に生まれたところでは飢えに苦しむことなく、喉が渇いて苦しむこともなく、感覚的な欲求が常に満たされているようになる。橋や船、諸々の履物を施すならば、次に生まれたときには種々の車や馬を持つようになる。

園林を施すならば、富みかつ高貴な者となり、全ての者のよりどころとなり、身体は整っていて、心は楽しく、悲しみがなくなる。このような種々の人間の世界に生まれたときの境遇は、施しが原因となっているのだ。

もし、人が施しをして福徳を身につけ、形のある行いや生活を好まないならば、四天王の世界に生まれる。

もし、人が施しを行い、それに加えて父母や兄弟、親戚の世話をし、さらに怒ることなく、恨むことなく、訴訟や争いを好まず、また訴訟や争いを見て喜ばない人は、忉利天、夜摩天、兜率天、化自在天、他化自在天に生まれる。このように種々に分別して施しを行うことを、菩薩の施しは智恵を生じるという。

もし人が、施しを行って心に執着することなく、世間を厭い、悩み苦しみ、涅槃の安楽を求めるならば、これを阿羅漢、辟支仏の施しという。

もし人が仏の道のために施しを行い、また人々のために行うならば、これを菩薩の施しという。このように種々の施しを分別して理解することを、施しは智恵の完成を生じるという。

次に、全ての智恵や功徳の原因はみな施しにある。千の仏が初めて道心を起こしたときには、種々の財物を諸々の仏に差し上げたものだ。ある者は華香を、ある者は衣服を、ある者は楊枝を奉り、道心を起こした。このような種々の施しをもって、菩薩の施しは智恵の完成を生じるという。

<第十二巻 終>

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