MMTについて

功績と限界

MMT(現代貨幣理論)論者は、「雇用を創出するために、政府は国債をじゃんじゃん発行すべきだ」と主張する。彼らによれば、国家の財政の源は、税収ではなく国債である。あるいは、中央銀行が発行する預金残高が、国家の財源に変わるらしい(動画参照)。だから日本政府は緊縮財政を行うべきではなく、積極的に支出を増やして、赤字財政を続けたほうがよい。なぜならば、政府の支出は民間の所得となり、政府の赤字は民間の黒字になる。ゆえに、政府が赤字になるほど経済は成長するのだ、と。

政府の財源が税収ではない、という話は、たしかに手続き上はそうだろうと思う。だが、すべて彼らの言うとおりだとすると、税収無しに国家が成立しうることになってしまう。そんなことがありうるのだろうか。

こういった新しい学問に関しては、私の得意なテキスト批判ができないので、ちょっとやりにくい。というのも、彼らの最も基本的な前提が何であり、どんな仮定のもとに学問が組み立てられているのか、まだ明らかになっていないからである。おそらく彼ら自身は、何の仮定も置いていないと考えているのだろうが、それはありえない。なぜなら、彼らにしても、貨幣に何らかの価値が存在することは認めざるをえないからである。

だが、貨幣の存在は単なる妄想であって、実在するのはただの紙切れである。貨幣は我々の頭の中にしか存在しない。ゆえに、貨幣に関する理論をいくら作ったところで、実際の経済を理解することはできない。存在しないものについていくら考えても、時間の無駄である。ただ、政府の説明と実際の行政手続きの乖離を指摘した点は、彼らの功績であろう。

貨幣とは何か

経済とは労働と商品であり、貨幣ではない。労働は商品ではないし、商品は貨幣ではないし、貨幣は労働ではない。マルクスはこれらを等価とみなしたが、それが誤りであることはすでに指摘した。しかし世の中には、この嘘に騙されている人がまだ大勢いる。

たとえば、経済成長は生産性の向上によってもたらされる、という話がある。どういうことかというと、マルクスによれば、商品の価値は平均労働力を単位として決定される。つまり、その商品を作るためにどれだけの労働力が必要か、ということによって、商品の価値が決まる。

ここで仮に、誰かが新技術を開発し、それによって、いままで二人がかりで行っていた仕事が、一人でできるようになったとしよう。そうすると、その商品を製造するために必要な労働力は、二人から一人に減ったので、商品の価値は半分に減ったように見える。

しかし実際はそうではなく、品質が同じならば、商品の価値は同一である。この場合、一人の人間が二人分の仕事をできるようになったので、この人の労働力は、平均労働力の二倍の価値があることになったのである。そしてもう一人の人が、もう一つ余計に商品を作るならば、以前と同じ労働力で、二倍の商品が、つまり二倍の価値が生み出されたことになる。これが経済成長であり、富の量が二倍に増えた、ということである。

注意すべき点は、この構図の根本に、労働=商品価値=貨幣=富という公式が横たわっていることである。ここで貨幣の意味を問うことは、我々をトートロジーに導いてしまう。なぜならば、貨幣とは労働力によって定義されるものであり、実際に存在するものではないからである。

労働は現実に存在する。それは人間の仕事であり、目で見ることもできるし、耳で聞くこともできる。商品も同様である。我々はそれの味を知り、手触りを知ることができる。だが、貨幣は別である。それは、労働力と等価であると定義されることによって、初めて我々の前に姿を現す。それ以前には、我々にはそれを知る手段がない。

マルクスは、自分は貨幣の分析を行っているのだ、と信じていた。だが実際には、彼が貨幣を作り出していたのである。私には、MMT論者もマルクスと同じことをしているように見える。

富とGDPの違い

実際には、商品の数によっても、労働の量によっても、富を量ることはできない。なぜならば、ある商品に価値があるかどうかは、人それぞれだからである。たとえば鮭が好きな人にとっては、鮭には大いに価値があるが、鮭が嫌いな人にとっては、それほど価値はない。ゆえに、社会に存在する富の量を量ることはできない。量る人によって、それは変わってくるからである。

だが、ある程度の指標を作ることはできる。つまり、最小公約数的な、どんな人にとっても必要な商品は少なからず存在する。たとえば食料や衣料品などである。ゆえに、これらの商品の生産力を示す指標としてなら、GDPにもある程度の価値があると言えるだろう。しかし、それ以上の意味をそこに見出すことはできないし、すべきでもない。

また別の動画で、三橋貴明氏は、日本はGDPで中国に追い抜かれたので、いずれ中国の属国になるだろう、と述べている。これも論理の転倒である。

たとえば太平洋戦争について考えるときに、アメリカの経済力は日本よりも大きかったので、日本は負けたのだ、と考える人がいる。これは一見合理的な推論に見えるが、誤りである。というのも、歴史を丹念に調べてみると、日本が負けたとは言えないからである。結果を比較してみれば、むしろ日本が勝ったと考える方が正しい。

しかし多くの人は、GDPが大きい国のほうが強いはずだ、という思い込みがあるために、日本は負けたのだ、と結論づけてしまう。自分の思い込みに合うように、事実をねじ曲げてしまうのである。実際には、GDPが小さいからといって、戦争に負けるとは限らないし、属国になる必要もない。だが、お金の魔力にとりつかれた人には、すべてが逆さまに見えるのである。

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