国際連盟と国際連合

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現在の米中対立の構図は、かつて日本が望んだものに近い。二十世紀初頭、アメリカは中国に対する野心を隠さなかった。門戸開放制限に始まりレンドリース法に至る流れは、アメリカが中国に対する影響力を拡大しようとした、その努力の結果だと言える。

列強の植民地獲得競争に遅れてやって来たアメリカは、まだ植民地化されていない中国こそが自分たちの取り分だと確信していた。だがアメリカは、それまでの列強とは少し違った。オランダやイギリスは武力によって植民地を切り開いたが、アメリカはむしろソフトパワーによって中国をアメリカに依存させようとした。それはたとえば、中国人留学生を積極的に受け入れたり、あるいは武器の貸与によって中国人に恩を売ろうとしたり、そういった行為に現れている。

巨大な経済生産力を持つアメリカは、自国で生産した商品の販路を求めていた。そして、膨大な潜在的消費者を抱える中国こそは、アメリカに無尽蔵の富を約束してくれる桃源郷であった。

一方で、当時の日本には中国に売れる商品などなかった。日本にとって、中国はそれほど魅力的な場所ではない。しかし、地理的にも文化的にも日本と中国の距離は近く、中国の混乱は、日本社会に悪影響を与えずにはおかなかったのである。そのため日本は、中国の政治に積極的に介入せざるを得なかった。それは自衛のための行為だったと解釈することもできる。

これが、中国に対する、日本とアメリカそれぞれの立場の違いである。結論として、積極的に中国を侵略しようとしていたのは、日本ではなくアメリカだったと言える。

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当時の日本とドイツは、イタリアとともに三国同盟を結んでいた。そのため今では、これら三か国は悪の枢軸と呼ばれることもある。しかし国家間の同盟は、様々な理由から結ばれるものである。同盟を結んでいたからといって、相手国の政策すべてに同意したということにはならない。日本とドイツが軍事同盟を結んでいたとしても、これらの国家間に何らかの政治的な同一性があったと考えるべきではない。

では、どうして我々は、当時の日本とドイツを一括りにして考えてしまうのだろうか。それは、そう考えないと、アメリカの中国に対する侵略的行為が正当化できないからである。もちろん、この侵略は、必ずしも敵対的なものではなく、むしろ表面上は友好的なものにすら見える。だが、他国との友好関係を深めるために武器を与えるという行為は、たとえそれが善意から出たものだとしても、間違った行為だと言わざるをえない。

アメリカの中国支配にとって、最も邪魔な存在は日本であった。当時の日本は、中国から、できる限り欧米勢力を排除しようと努めていた。それは日本のためでもあり、中国人民のためでもあった。というのも、もしも中国までがアメリカの植民地になってしまえば、日本は東西両面から挟撃される形になってしまうからである。そうなったら詰みである。それよりはむしろ、中国に独立勢力となってもらった方が都合がよい。そのために中国の独立を望む日本人は多かった。

しかし、アメリカはそれを望まなかった。彼らは、中国がアメリカのものになることは既に決まっているのだ、と思い込んでいた。ゆえに、それを邪魔する日本の存在が、アメリカの権利を脅かすものに見えたのである。これこそが、日米戦争の根本原因である。

この意味では、枢軸国という言葉自体が、アメリカ政府の作為であると言えるだろう。この言葉によって、日本とドイツを同一視し、日本を民主主義の敵と呼ぶことができるようになった。アメリカ政府は、そのようなレトリックによって議会を説得し、武器貸与法を可決させることに成功した。その先にあったのは、中国に対する紛れもない野心である。

3

三国同盟を結んだ外相松岡洋右を非難する人もいるが、私は、当時の世界情勢では仕方のないことだった思う。有形無形の日本包囲網は厳然として存在し、それに対抗するために、敵の敵は味方ということで、ナチスと手を結ばざるをえなかった。また、満鉄の理事を務めていた松岡には、ひょっとすると別の思惑もあったのではないか、と勘繰ってしまう。

太平洋戦争中の石原莞爾の講演記録などを見ていると、彼があの戦争をどのように捉えていたかが分かる。彼は、日本と中国、ロシア、ドイツが協力してユーラシア大同盟を作り、イギリス、アメリカのアングロサクソン海洋帝国に対抗しよう、という構想を描いていた。おそらく松岡の頭の中にも、このような思惑があったのではないか。こういう観点から見ると、三国同盟にもまた別の意味が見えてくる。

また、ナチスドイツと同盟を結んでいたからといって、日本政府に人種差別的な傾向があったわけではない。むしろ日本は、積極的に人種差別を廃絶しようとしていた。それも当然で、日本人はどちらかといえば、白人から差別される側に立っていたからである。たとえば、第一次世界大戦の戦後処理を行ったパリ講和会議において、日本全権は人種差別の撤廃を提案している。しかしこの提案は、議長であったアメリカ大統領ウィルソンの反対により、不採択となってしまった。

ここで注意すべきは、ウィルソンこそが、国際連盟の設立を提案した張本人だったことである。その彼が人種差別撤廃に否定的だったということは、当時の国際連盟の性質を如実に物語っている。つまり国際連盟とは、列強の利益を守るためのクラブにすぎなかったのである。もしも人種差別の撤廃を認めれば、列強による植民地支配の正当性が否定されてしまう。当のアメリカもまた、フィリピンを植民地として統治していた。ゆえに彼の立場からは、人種差別の撤廃に賛同することはできなかった。

石原莞爾が引き起こした満洲事変は、そのような列強同盟からの脱退を日本に促したのだから、現代社会の通念から見れば、その行動は全く正当なものであったと言わねばならない。むしろ、彼の提唱した満洲国の理念こそが、その後の国際連合に受け継がれているのである。満洲国は五族協和を理想としており、それは人種の平等を意味していた。

国際連盟の基礎を作ったのはアメリカだが、アメリカはそこに参加しなかった。そして、国際連合の基礎を作ったのは日本だが、当初日本は参加していなかった。そのように言えるのではないか。

4

また、日本の中国への関与が自衛のためだったといっても、それによって日中戦争が正当化されるわけではない。しかし日中戦争が、近代中国が成立する過程において、重要な役割を果たしたことは否定されるべきではないだろう。

当時の中国は、各地に軍閥が乱立する群雄割拠の様相を呈しており、日本軍はそれらを潰してゆくことによって、中国を平定する役割を果たした。その結果、中国には共産党と国民党の二大勢力だけが残されることになり、やがて日本軍がならした土台の上に、共産党が統一政権を打ち立てることになる。つまり近代中国は、日本軍と共産党の合作と言える。

また日中戦争によって、中国にはびこる欧米勢力が排除されたことも注目されるべきである。中国大陸には列強の軍隊が駐留し、その勢力が深く食い込んでいたが、日中戦争によって日本一色に染まった。その後日本軍が撤退することで、中国人だけが残ったのである。中国に巣食うこれらの病根を取り除くことで、中国統一の足掛かりができたと言える。

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