比喩について

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THE BLUE HEARTS に『リンダリンダ』という歌がある。その中に「ドブネズミみたいに美しくなりたい」という歌詞が出てくる。これはずいぶんな言い草だと思っていた。

ここで彼らが言わんとしていることは、自分の心はドブネズミよりも汚い、ということであろう。自分の心に比べれば、ドブネズミの方がはるかに美しい、という意味である。

しかし、汚いのはドブネズミの外見であって、ドブネズミの心が汚いわけではない。したがって、これは不正確な比喩である。本来は彼らの心と、ドブネズミの心を比較するべきものである。


たとえば、次のような表現があったとしよう。

「彼は腹の黒い男だ」

これを次のように言い換えてみよう。

「彼の腹は黒人のように黒い」


この表現は確かに差別的ではない。しかしここには、差別につながりうるような、ある種の曖昧さが含まれていると思う。

そしてこの表現は、比喩の形としては、先ほどのドブネズミの例と同じである。本当ならば、彼の心と、黒人の心を比較するべき場所なのに、それを黒人の皮膚の色と比べてしまっている。このような不正確な比喩が、差別の原因となっている場合があるのではないか。

もちろん、だからといって、『リンダリンダ』がドブネズミへの差別を助長している、と言うつもりはない。だが、歌を作るほどの人間は、比喩に対してもう少し繊細な感覚を持ってほしいと思う。

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では、正確な比喩とは何だろうか。

たとえば、次のような表現を考えてみよう。

「そのとき彼は、晴れ渡る空のようにすがすがしい気持ちになった」

この場合、彼の心と、無機物である空とを比較しているのであるから、正確な比喩とは言えないのではないか、と考える人がいるかもしれない。

私が思うに、この比喩は正確である。そもそも人間の心は、人間の中にあるわけではない。青空を見たときに、気持ちがよいと思うその感情は、青空の中にあるのであって、我々の身体の中にあるのではない。ゆえに、人の心を空模様で表現することは間違いではない。

理科の授業でよく言われることだが、単位の違うもの同士をイコールで結んではいけない。たとえば、一キログラムの重りと、一メートルの物差しは、どちらも一という数字で表現されるが、その一という数字が意味するものは全く異なる。これと同じことが、普通の単語にも言える。

汚いという言葉が、見た目の不潔さを言うこともあれば、心の貧しさを言うこともあるし、雑菌がついているかもしれない、という意味を含んでいることもある。

そのように、一つの言葉には、様々に違った意味合いがあるのであって、同じ単語を使っているからといって、その意味を無造作に結び付けてはいけない。そういう大雑把な比喩が、まずい比喩である。

西洋人はそういった比喩を、文学的な表現だと言って面白がるかもしれないが、我が国の詩文はもっと繊細である。文学というものは人の心を育てるものであるから、しっかり勉強してほしいものである。

アウシュビッツ以後、詩は野蛮だと言った人がいる。私に言わせれば、それ以前からヨーロッパの詩は野蛮である。感覚的な快楽を追求するその表現はたしかに美しいが、中身は空っぽである。

ヨーロッパがモンゴル人によって征服されなかったことは、彼らにとって最大の不幸であろう。

中国では昔から、詩は心だと言う。それは、詩が詩人の心を表現している、ということではなく、むしろ詩こそが心である、という意味であろう。つまり、詩の中にこそ人間の心はあり、詩の外に心というものは存在しない、ということである。

ここでは言葉と人間の関係が逆転しており、それが中国詩の特徴であるように思う。日本における歌は、それとも少し違う。

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