座禅

 仏法を学ぼうとするものは、必ず座禅を修めなければならない。瞑想をせずに読書だけ行っても、何の意味もない。
 いわゆる仏教学者の人々は、書物を読むだけで仏法に通じたつもりになっている。片腹痛いことである。座禅に打ち込むことなしに、仏法を知ることはできない。仏教学者は須らく座禅を修めねばならない。
 もちろん、それは簡単なことではないだろう。座禅を始めたときに最も困惑することは、何をすればよいか分からないことである。

 座禅とは、基本的にはただ座るだけである。三十分なり一時間なり、時間を決めて座り続ける。その間、自分から動いてはいけない。それでは何もできないように思えるが、実際には何でもできるのである。
 人間とは、常に何かをしないではいられない生き物である。ただ座っているだけでも、我々の心の中では活発な運動が行われている。それがあまりにも自由なので、かえって何をすればよいか分からなくなってしまう。それが座禅の難しさだと思う。
 本当は適切な師匠に教えを乞うのが一番良いのだろうが、そんな悠長なことを言ってられない場合もある。それに、最後は自分自身で工夫するしかないものでもある。私も、大乗起信論とか摂大乗論とかを参考にしながら、いろいろ工夫をしてみたが、結局、ただ座るだけでよいということに気づいた。それが正しいのかどうかは分からないが、少なからず得るところはあったと思う。

 世に言う仏教学者の方々も、疑念を持たずに、まず座ってみてはどうか。

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