中論

 反復可能性は科学の本質ではない。なぜならば、反復可能な実験など存在しないからである。我々は、ある程度条件の揃った実験を、近似的に同一の条件下で行われたものとみなしているだけである。
 科学の本質は因果律である。それは、同一の原因から同一の結果が生じる、という原則であり、その原則を信じているからこそ、実験の反復可能性が問題にされうるのである。

 科学とは、因果律の信仰に他ならない。それは、事実に対する信仰と言ってもよい。それは、個人の意識を越えた、現象世界の広がりを信じるということであり、自分自身もその世界の一部に過ぎないということを認識することである。
 それは一つの信仰である。なぜならば、それは言葉によって証明できないからである。事実が存在するということ、客観的な世界が存在するということは、あまりにも自明なことなので、言葉によって説明することができない。だからこそ、言葉に囚われた哲学者や宗教家は、事実の存在を否定し、科学の正しさを否定する。言葉の上でそれを否定することは簡単である。
 では我々には、彼らの無知を治してやることはできないのだろうか。彼らが誤った考えに陥り、世間の人々を惑わせているのを、ただ見ていることしかできないのか。

 そうではない。実際には、彼らを議論によって打ち破る方法がある。あらゆる哲学者や宗教家の世迷言を、完膚なきまでに粉砕し尽くす方法がある。それが中の道である。
 それは、相手の議論の矛盾を指摘するということである。こちらでは何の前提も用意しないで、相手に好きなだけ持論を展開させる。その上で、相手が用いた前提を取り上げて、その矛盾を指摘するのである。これをやられると、誰も反論できなくなる。立脚点を崩されるからである。
 そのための議論の方法をまとめたのが、中論である。中の道を実践するためには、まず、あらゆる哲学的議論に精通する必要がある。人間が考えうるあらゆる思想は、梵網経の中に列挙されている。また中論のなかには、人間が展開しうるあらゆる哲学的な議論が網羅されている。それを学び尽くすことで、どんな議論をも粉砕できるようになる。キリスト教もイスラム教もギリシャ哲学も近代哲学も、すべての思想は中論のなかに収められ、そして悉く論破されている。あらゆる議論はすでに終わっているのである。我々にはもはや、議論すべきことは何一つ残されていない。
 しかし、為すべきことはまだある。議論の消滅を知らない愚か者どもに、その事実を伝えてやらねばならないのである。三千世界を遍く照らす金剛不壊なる仏陀の智恵の光の前では、あらゆる議論は無力であることを教えてやらねばならない。それを知らない愚か者が、この世界にはまだ山ほどいるようであるから。

(反知性主義 終)

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