二つの進化論

1

 現代の人々は、進化論と聞くとダーウィンの名前を思い浮かべるだろう。しかし、進化論にはもう一人の立役者がいた。それが、アルフレッド・ラッセル・ウォレスである。
 彼は天賦の才能を持つ研究者だったが、生家は貧しく、専門的な教育を受けたことはなかった。学者の道がはじめから閉ざされていた彼が選んだのは、ハンターという仕事だった。東南アジアや南米の密林を探検して様々な動植物を採集し、研究者や貴族のコレクターに売りさばいた。不安定ながら収入があり、しかも実地で生物学を学べるという一石二鳥の仕事であった。

 彼は、様々な土地を巡りながらそこに住む動植物を観察し、不思議な事実に気付いた。それは、隣接した地域に住む生物種は、互いに似ているということである。たとえば、ある島に住むサルは、隣の島のサルとよく似ている。そのサルはまた、二つ隣の島に住むサルとも似ているが、隣の島のサルよりは違いが大きい。また、三つ隣の島のサルと比べると、さらに違いが大きくなる。しかし、隣同士の島に住むサルは、どれも互いによく似ているのである。
 つまり、生物の形態は地域ごとに異なるが、そこにはある種の連続性がある、ということである。ウォレスはこの事実に興味を持ち、それを説明しようとして進化論を思いついた。たとえば、一つの種がある島で生まれ、それが隣の島に渡ったとしよう。島ごとに環境は少しずつ異なるので、新しい島に適応した種は、もとの種とはわずかに異なるものとなる。その種がさらに隣の島へ渡ると、さらに変異は大きくなる。このように、環境への適応として生物が進化する、という考え方によって、彼は、種の連続性を説明することに成功したのである。

 ここで不思議なことが起きる。ウォレスは、マレー諸島で熱に浮かされながら思いついた彼の理論を論文にまとめ、それをなぜかダーウィンに送ったのである。驚いたのはダーウィンの方である。彼はビーグル号の冒険以来、二十年以上も進化論のアイデアを温め続けてきた。これを長すぎると思う人もいるかもしれない。私もそう思う。しかし、ダーウィンは決して無為に二十年を過ごしていたわけではなく、その間、進化論の証拠を収集し続けていたのである。
 彼は、驚くべき記憶力と粘り強さの持ち主であり、世界中から生物の標本や奇妙な現象の報告を集め、進化論を補強する材料を積み重ねていた。時間が経てば経つほど材料は増えたが、一方で、それを論文にまとめる作業は遅々として進まなかった。つまりダーウィンは、進化論を思いついてから二十年以上、一度もそれを公表しなかったのである。彼には決断力が欠けていたと言わざるをえない。
 そこに飛び込んできたのがウォレスの論文である。ダーウィンは慌てた。なぜならば、ウォレスの進化論は、彼の進化論と瓜二つだったからである。困ったダーウィンは友人に相談し、結果、ダーウィンの論文とウォレスの論文が、同時に学術誌に掲載されることになった。したがって進化論は、ウォレスとダーウィンによって全く独立に、そして同時に発見された、ということになる。

 いったいどうしてこのようなことになったのか、不思議なめぐりあわせと言うしかない。しかし、ウォレスという人間を知るにつけ、それが偶然だとは思えなくなってくるのである。ウォレスには千里眼があったのではないか、と私には思われる。そもそも、大学で教育を受けたこともない人間が、ジャングルを探検して生き物を捕獲するだけで、進化論を思いつくことができるのだろうか。また、過酷なハンターの仕事の中で、彼はどうやって勉強する時間を作っていたのか。
 ウォレスは疑いようもなく天才であった。それは、彼の文章からも分かる。彼が書いた記事は、論旨が明快な上に論理的で分かりやすい。理想的なサイエンスライターである。一方で、ダーウィンの文章は悪文として知られている。ミミズがのたくったような、と言えばいいだろうか。事実の客観的な正確さを尊重するあまり、何が言いたいのか分からなくなってしまう、という典型的な学者先生の文章である。二人の文章を比較するのは少し残酷ではあるが、それぞれの性格がよく出ていて面白い。そして文章の中でも、ウォレスの才能は遺憾なく発揮されている。

 ダーウィンとウォレスの間にはそれ以前から交流があったが、ダーウィンは、ウォレスが進化論を発見したことに気づいていなかった。一方で勘のよいウォレスは、ダーウィンが進化論を思いついていることを知っていた。それを知りながら、自分の論文をダーウィンに送ったのである。
 なぜ、彼はそんなことをしたのだろうか。彼らは同じテーマの研究を進める、いわばライバル同士の関係にあった。ダーウィンに抜け駆けされるかもしれない、とは思わなかったのだろうか。

 ウォレスはそう考えなかった。ここが、ウォレスという人間の不思議なところであり、魅力でもある。彼は、ダーウィンとじかに接する機会をほとんど持たなかったにもかかわらず、ダーウィンの人となりを熟知しているかのように振舞ったのである。
 私には、ウォレスとダーウィンの出会いは、単なる奇跡だとは思えない。この二人の関係は非常に興味深いものである。

2

 ときどき、ダーウィンが進化論の栄誉を独り占めしたことを、非難しようとする人がいる。本当は二人の発表は同時だったのだから、ウォレス=ダーウィンの進化論と言うべきではないのか、と。それはその通りであるが、ダーウィンが進化論の代表者とみなされることは、ウォレス自身が望んだことでもある。
 そもそも、当時のイギリスの科学界は、現在ほどギスギスしたものではなかった。誰が最初に発見したとか、誰が賞をもらったとか、もらえなかったとか、そういう競争に明け暮れていたわけではない。そこは、純粋に科学を探求しようという好奇心の世界であり、ある意味では、貴族の趣味の延長であった。
 だが、そんな中でもウォレスの態度は際立っていた。彼は、進化論の栄誉をすべてダーウィンに譲ろうとしたのである。それは、ダーウィン家に保存されていた、彼の手紙からも分かることである。一方で、ダーウィンの方も、進化論をウォレスに任せようとしていた。

 この辺りの事情はややこしい。はっきりしたことは分からないが、それぞれの立場を推測してみたい。まず、ダーウィンは、このときすでに英国生物学界の権威であった。ビーグル号の探検から二十年以上、着々と博物学の業績を積み重ね、押しも押されぬ第一人者となっていた。その上、彼は貴族であった。自宅の庭に植物園を作り、植物の観察をしながら研究論文を書くという、悠々自適な生活を送ろうとしていたのである。
 そのため本心では、進化論などという、すぐに炎上しそうな話題とは距離を置きたかったのかもしれない。キリスト教の信仰が根強い当時のイギリスにおいて、創造説を真っ向から否定する進化論を唱えることは、自らを危険地帯に追いやることを意味していた。つまり彼は、ウォレスを身代わりにしようとしたのである。まだ若いウォレスならば、様々な批判にもめげずに進化論を守り抜くことができるだろう。そう期待して、進化論を後輩に委ねようとしたわけである。ウォレスはダーウィンよりも十四歳若かった。

 しかし、そうは問屋が卸さない。ウォレスには、ダーウィンのような知識の蓄積がないし、生物学界における権威もない。ここでダーウィンに退かれたら、進化論の命脈は絶たれる。彼はそう考えた。そして、引きこもりがちな先輩研究者を進化論戦争の最前線に引っ張り出すために、ウォレスは自ら身を引いたのである。そんな駆け引きが、そこにはあったのかもしれない。
 ともかく、ダーウィンはウォレスから進化論を奪ったわけではない。実際には、二人は共同研究者に近かったのである。両者は頻繁に手紙のやり取りをして、進化論やその他の話題について議論を交わしていた。また、個人的な問題についても、ダーウィンはウォレスを心配していた。ウォレスには生活能力がなかった。定職に就かずに、冒険記の印税や原稿料などで収入を得ており、生活状況はつねに苦しかった。ダーウィンの働きかけで政府から年金が出るようになったのは、ウォレスがようやく六十歳ごろのことである。

 二人の進化論はよく似ていたが、細かく見れば違いもあった。ウォレスの進化論は島の進化論である。島々においては、環境は不連続に変化するが、生物種は連続的に変化する。一方で、ダーウィンの進化論は大陸の進化論である。大陸においては、環境は連続しているが、生物種は不連続である。両者の進化論の微妙な差異は、この違いによるのではないか。つまり、連続性に着目するか、不連続性に着目するか、という違いである。
 語るべきことはまだいくらでもあるのだが、とりあえず、このあたりでやめておこうと思う。

 彼らの手紙のやり取りを読んでいると、我知らず心が湧き立ってくるのを感じる。そこには科学への限りない情熱があり、自然を知ることへの喜びが溢れている。その喜びを分かち合える人間がいたということは、互いに幸せなことだったのだと思う。ダーウィンとウォレスは、科学の歴史上最も幸福な共同研究者であった。
 彼らの書簡は、新妻昭夫氏の『進化論の時代 ウォーレス=ダーウィン往復書簡』によくまとめられている。非常に面白い本である。

3

 ウォレスの話をするときに、必ず話題に挙げられるのが、心霊主義との関係である。
 月並みな言い方をすれば、心霊主義とは世俗化されたキリスト教である。近代科学の実証性をもってしても、霊魂の存在を証明することもできないし、否定することもできない。それが分かったときの葛藤や苛立ちが、心霊主義という形をとって現れたのだろう。

 アメリカのプラグマティストにも、心霊主義は影響を与えている。ジェームズはそれを好意的に受け取っていたようだが、パースはむしろ冷淡であったように思う。しかしそれは、彼が宗教的な保守主義者だったということではない。パースの宗教観は、はっきりとは説明しがたい独特のものであり、こう言ってよければ、異教的なものでさえあった。
 それは、彼よりも年代は下るが、ラヴクラフトの小説に見られるような、原始的な宗教観と共通するものである。彼の小説は一種の宗教的なヴィジョンを提供しており、それは、キリスト教に対するアンチテーゼとして理解できるものである。そこには、アメリカ独特の、原始的な宗教の躍動が感じられる。

 これらの非キリスト的な宗教観と比べると、心霊主義のキリスト教的な性格がよく分かる。私は、コナン・ドイルの冒険小説の一つ、チャレンジャー教授シリーズが好きなのだが、その最終巻は心霊主義を扱っている。そこに現れるテーマは、罪や罰、贖罪や許しといったものであり、伝統的なキリスト教の問題意識と変わりがないように思われる。つまり心霊主義は、洗練されたキリスト教の伝統に根差すものであり、無味乾燥でありきたりな、キリスト教の一変種にすぎないのである。

 日本にも一定数の心霊主義の支持者がいるが、注意すべきは、彼らのキリスト教信仰との親和性の高さであろう。キリスト教的な霊魂への信仰が根付いていないところでは、心霊主義は支持されえないのである。
 また、私が「異教的」という言葉を使うのは、キリスト教徒の慣例に習ってそうするだけであって、特に侮蔑的な意味合いはない。なぜならば、私の立場からすれば、キリスト教も数ある外道の一つにすぎないからである。

 ここで、仏教における霊魂の扱いについて言及しておくべきなのかもしれない。諸法無我の立場からすれば、霊魂は存在しない。しかし、存在しないことを証明できないという点からいえば、霊魂は不常不断である、ということになる。
 押さえておくべきポイントは、キリスト教は霊魂の存在を仮定しなければ成り立たないが、仏教は霊魂の存在を仮定しなくても成り立つ、ということである。つまり、どちらでもよいのである。仏教そのものの構造は、霊魂が存在するか否かという問題とは関係しない。これを、仏教は霊魂から独立している、と言うこともできるかもしれない。このあたりに、仏教のおもしろさがある。

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