記事紹介4:宗教

こんにち宗教といえば、キリスト教やイスラム教、仏教やヒンドゥー教など、様々な信仰を意味する言葉として使われています。そして、この言葉を使うことで、それぞれの信仰の間にある本質的な区別が覆い隠されてしまいます。宗教という一つのものがあり、キリスト教と仏教の違いは一種のファッションにすぎない、そこに本質的な違いはないのだ、と考えられるようになりました。

しかし私はむしろ、仏教のみが宗教と呼ばれるべきであり、そのほかの信仰はすべて偽りの宗教、あるいは単に迷信と呼ばれるべきであると考えます。あるいは、それらの迷信を宗教と呼ぶのであれば、仏の教えを宗教と呼ぶべきではありません。このHPでは一般の慣習にならって、キリスト教などを宗教と呼び、仏教をそこから区別して扱っています。


では、どうして仏教が真実の信仰であり、啓示宗教は偽りの信仰だと言えるのでしょうか。

まず読んでいただきたいのが「キリスト教の問題」です。ここで私は、キリスト教の教義に含まれる矛盾を指摘しています。ただ、そこに矛盾があることはよく知られているため、むしろ不合理を信じることが宗教なのだ、と言われることがあります。しかしながら、不合理を信じることはただの迷信です。仏教は不合理を拒絶しますが、キリスト教は不合理を受け入れます。ゆえに、ここには本質的な違いがあると言えます、仏教とキリスト教をともに「宗教」と呼ぶことは、仏陀に対する冒涜です。

キリスト教に関しては、他に「キリスト教と仏教」「正義の必要性について」などで議論しています。

次にイスラム教に関しては「コーランについて」「再びコーランについて」や、上述の「正義の必要性について」でも議論されています。また「難民の受け入れ」「運について」も参考になると思います。


以上いくつかの論考を示しましたが、この問題についてより詳しく知りたいという方は「空の論証」を読むことをお勧めします。これはギリシャ哲学を扱った論文ですが、ギリシャ哲学を知ることが、啓示宗教を理解するための鍵になります。なぜならば、キリスト教やイスラム教の神学には、スコラ学が強い影響を与えているからです。また、おそらくキリスト教の成立そのものに、ネオプラトニズムなどを介して、ギリシャの思想が深く関わっていると考えられます。

上記の論文は、仏教中観派の思想に基づいて、アリストテレスやプラトンを批判し、その誤りを指摘するものです。どうしてそのようなことが可能なのかといえば、おそらくインドには、ギリシャ哲学の源流とも言える哲学の伝統があったのだと思います。仏教の教理は、それら哲学者との対決を通して発展してきたので、ギリシャ哲学に対しても批判的な視座を提供することができます。両哲学の間には深い類似性がある、と私は考えています。そのような視点から書かれた論考が「キリスト教は外道か」であり、また「宗教と歴史」「二元論の歴史」も参考になると思います。

仏教関係の記事については、また別の場所で紹介します。

タイトルとURLをコピーしました