ポスト・トゥルース

最近はフェイクニュースが流行っていて、人々は、どうすればだまされずにすむか、ということに興味を抱いている。また、ポスト・トゥルースという言葉もあって、もはや真実など必要ない、と考える人もいる。

だが、人間社会にフィクションが蔓延しているのは、いまに始まったことではなく、歴史の始まりから、人はフィクションを真実だと思い込んできた。たとえばキリスト教というものがあって、これは、人間イエスが神であり、その神が一度死んで甦ることで、人類全体が救済された、というフィクションを信じる宗教である。こうした虚構こそが真実であると思い込むことが、人間の特徴だといえる。

では、真実とは何だろうか。真実とは、言葉の性質である。ある言葉が事実と一致しているときに、それは真実だと言われる。ある言葉が事実と一致していないときに、それは偽りだと言われる。このように考えると、キリスト教は真実ではありえず、それは偽りだと言える。

では、真実の宗教は存在するのだろうか。当然ある。それが仏教である。仏の言葉は、事実と一致するために真実だと言われる。たとえば、諸行無常という言葉がある。あらゆるものは移ろい、変化するものだ、という意味だが、これは事実である。自分の身の回りにあるもので、変化しないものはない。どんな道具でも使えば劣化するし、何もしていないのに部屋はどんどん汚れてゆく。我々は普段から諸行無常を実際に見て、経験しているので、それを否定することはできない。そういうふうに、仏の教えは事実をありのままに伝えるものである。

しかし、そうであるならば、仏の教えの何が尊いのか。当たり前のことしか言っていないのであれば、何の価値もないのではないか、そう思う人もいるだろう。だが、人間にはそもそも、現実を理解する能力はない。何が真実であり、何が偽りであるかを区別する能力がない。だからフェイクニュースにだまされ、ポスト・トゥルースという言葉に踊らされるのである。事実をありのままに理解するということは、人間の能力を超えている。

それが可能になるのは、仏の教えを学ぶことによってのみである。この世界で唯一、真実を伝え、現実をありのままに伝えているのは、仏の教えをおいて他にない。だからこそ、それは限りなく尊い。何がフィクションであり、何が事実であるかを区別できるようになるためには、仏の教えによるしかないのである。それ以外のあらゆる宗教、教説、学問は偽りにすぎない。仏の教えのみが事実を伝えている。

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