京都アニメーションと動画工房

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京都アニメーションは、三次元を意識したアニメーション制作をしていたと思う。それは立体的というより、カメラを意識した画作りと言うべきだろう。

京アニは演出がうまい。床に反射した光や、カメラのレンズでぼやけた光など、様々な表情の光を丁寧に描く。そして光を描くということは、空間を描くということである。それは、光源がどこにあり、どの表面で光が反射するのか、ということを考えなければ出来ない表現である。

そういった思想が基礎にあったので、CGの背景の上に二次元のキャラクターを配置するということも、彼らは自然にやってのけた。たとえば『けいおん!!』のOPでは、3Dで描かれた背景の中をカメラがぐるぐる回り、その中心で2Dのキャラクターが楽器を演奏するという、驚異的な映像を作り出した。

3Dでモデルを作ってしまえば、その中で視点を動かすことは簡単である。しかし、2Dで表現されたキャラクターに対して、カメラの位置を変えることは難しい。カメラが移動するにつれて、キャラクターの見える角度が変化しなければならないので、それを一コマずつ描写する必要がある。さらにキャラクター自体も動いているのだから、二重の動きを表現しなければならない。これは、三次元的な感覚を持ったアニメーターにしか描けないものであろう。

もう一つ例を挙げれば、『氷菓』第一話の千反田える登場シーンでも、同様の表現が行われていた。これは非常に印象的な場面であった。


京アニに象徴される三次元的なアニメーションに対して、二次元的なアニメーションを代表する制作会社として、動画工房の名前が挙げられるべきだろう。

彼らの作るアニメは動きに特化している。キャラクターの動きはテンポがよく、小気味の良さを感じる。テンポがよいというのは、メリハリが効いているということで、静と動をうまく使い分けている。限られた資源で最大の効果を発揮する、まさに職人芸である。

もちろん、彼らに立体的な感覚が欠けているというわけではない。ただ、光は意識されていない。

彼らのアニメには手描きの躍動感があり、カメラワークも自由自在である。そのため、3Dの背景よりは、背景動画的な手法のほうが、相性が良いのではないかと感じる。彼らが3Dのモデルを使うときには、カメラをわざと左右に振り、正確な表現を避けているような印象がある。

たとえば『うちのメイドがウザすぎる!』第一話前半の、主人公が廊下を走るシーンは素晴らしかったが、あれがCGを使った表現であることは、一度見ただけでは気づかなかった。この場面では、3Dの背景を書割として見事に使いこなしている。

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背景をCGで描くという手法が発明されたことによって、アニメーションの表現の幅は広がった。しかしそれは同時に、アニメーション業界に深刻な葛藤を生み出すことになった。我々は、キャラクターを含めてすべてをCGで表現するべきなのだろうか。それとも、2Dと3Dを融合させるべきなのか。これら二つの表現の間には深い溝があり、その矛盾を解決することはまだできていない。

極端なことを言えば、人間の視覚は二次元なのだから、すべてを二次元で描いても、表現としては十分である。人間の目は二つあり、また視点を移動させることで、ものを立体的にとらえることができる。しかし、網膜自体は平面の構造を持つのだから、視覚は二次元の感覚である。つまり、複数の平面図から、我々の脳が三次元のモデルを合成しているわけである。だから、わざわざ三次元で映像を作る必要はない、とも言える。

おそらく日本のアニメ業界は、CGという技術を効率化の手段ととらえているのではないか。とくにアクションシーンが多い作品では、手描きですべてを描くよりも、3Dモデルを動かしたほうが効率がよくなる。しかし、3Dのモデルには迫力がない。それを補うためにカメラワークを工夫して、かえって見にくくなることもある。

『ベルセルク』や『ヴィンランド・サガ』などはよくできていると思うが、どこか物足りなさを感じてしまう。一方で『宝石の国』は見事だったが、あれは原作の設定がCGに向いていたのだろう。

そもそも日本では、漫画の原作をアニメ化するということがよくある。そうすると、漫画という二次元の表現を三次元の世界に落とし込み、そこからまた二次元の映像を作るという作業になるのだから、果たしてそれが最善の方法なのかどうか、疑問がないでもない。その過程で、漫画の持っていた迫力が削ぎ落とされてしまうこともあるだろう。

漫画の表現と実写との間には深い隔たりがある。それが何に由来するのか、よく考えてみなければならない。

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