インパール作戦

1.背景

インパール作戦について、少し考えてみたい。大東亜戦争末期に行われたこの作戦は、史上最悪の作戦とも呼ばれ、日本軍が無残な敗北を喫した戦闘として記憶されている。

この作戦の背景を考えてみると、たとえば、大東亜会議にチャンドラ・ボースが参加したことからも分かるように、インドの開放が大きな目標としてあったと思う。大東亜戦争がアジアの開放を目的とする限り、イギリス最大の植民地であるインドの開放は、日本の大義を世界に示すためにも価値のある目標だったと言える。

ただ、日本軍がインドに侵入しようとした場合、どのルートを通るべきか、という問題があった。歴史的に言えば、インドに侵入する経路は二つある。一つは北から入る方法で、中央アジアからヒンドゥークシュ山脈を越えてインドに至る。玄奘が選択したのはこのルートで、アレキサンダーやムガル帝国もこの経路でインドに入っている。もう一つは海から入る方法で、これは義浄や大英帝国が選んだ方法である。基本的に、これ以外にインドに侵入する方法はない。

陸路の利点は、海路とは違って、大量の兵隊を運ぶことができる点にある。大英帝国は海から侵入したが、武装が優れていたので、少人数の兵隊でインドを制圧することができた。しかし、日本軍がインドを攻略しようとした場合、まずイギリスの陸軍を打ち破らねばならず、そのため陸路を選ぶしかなかったと考えられる。この場合、中央アジアを通って北からインドに入る方法は距離的に遠すぎるので、ビルマからベンガル・ヒマラヤ間の地域を通って、インドに侵入しなければならなかった。

だが、そこはアジア最大の秘境である。広大なジャングルの中で少数民族が細々と生活を営んでいるような、文明から最も遠い地域である。ここを大軍を連れて押し通り、アッサムにあるイギリス軍の拠点を攻撃しようとしたのだから、あまりにも壮大な計画だったと言わざるをえない。戦局が悪化し、体力が底をつきかけていた日本軍にとっては、老体に鞭打つような無謀な作戦だったという評価も適切である。

2.歴史的な意義

ここで、歴史のifを考えてみたい。もしも日本軍の思惑通りに事が進み、アッサムの英軍拠点を攻略し、日本軍の主導でインド解放を進めることができたとしたら、何が起きていただろうか。現実にはありえなかったと思うが、もしかすると、イギリスへの戦争協力の廉で、ガンジーは処刑されていたかもしれない。私は、ここに歴史の曲がり角があったと思う。

インドにはいまもカースト制度が根付いている。その人の職業や人生が、生まれによってある程度決まってしまう社会である。このようなインドの姿は、ガンジーによって作られた部分が大きいと思う。彼がインド固有の思想として称賛したのは、ヒンドゥー教の思想であり、これはカースト制度を前提としたものである。カーストという社会秩序を作り出した、聖仙や神々を崇拝する宗教だと言える。

ガンジー自身がそうした思想を持っていたために、独立後のインドはカーストを廃止するのではなく、それがより強化される方向に進んだと考えられる。これはインドにとって不幸なことであった。

彼は、ヒンドゥー教をインドの最も優れた思想であると考えていたようだが、それは当時のヨーロッパから得られた理解であった。しかし我々は、インドにおける思想がヒンドゥー教だけに限らないことを知っている。ヒンドゥー教と同じか、それ以上に優れた思想がインドにあったことを、我々は知っている。

だがそれは、インドではとうの昔に滅びた伝統であり、現在のインドとは疎遠なものだと考えられていた。そのためヨーロッパにおいては、それは現実のインド社会と結びつけて考えられてはおらず、純粋な学問の対象、あるいは東アジアにおけるその影響ばかりが取り上げられていたのである。しかし、それは本来インドに根差したものであり、インド社会と密接な関係を持ちながら発展してきたものである。

そのことに当時のヨーロッパ人、ひいてはガンジーが注意を払わなかったということは、不幸なことのようにも思えるし、バラモンの系譜に属する人々にとっては、ある意味では自然なことだったと言えるのかもしれない。彼らは仏教に注意を払わなかった。それがインド社会に与えた影響を完全に無視して、架空のインド像を作り上げていたのである。それはなぜかというと、ヨーロッパ人には仏教が理解できなかったからである。一方で、ヒンドゥー教の哲学はよく理解できたので、彼らは、それこそがインドにとって本質的な文化であると確信するようになった。

ヒンドゥー的な哲学とヨーロッパの哲学の間には、一種の近縁性があると考えられる。これについては本HPでもたびたび指摘しているが、両者には多くの共通点があり、私はこれらをまとめてバラモンの哲学と呼ぶことにしている。

そのために、ヨーロッパ人はヒンドゥー教を深く理解することができたが、逆に仏教については全く理解が進まなかった。そこで、仏教とヒンドゥー教に関する知識の量に差ができてしまい、ヒンドゥー教とインド社会との関係性ばかりが目に留まるようになってしまった。その結果、ヒンドゥー教こそがインドの歴史を規定するものであり、仏教の影響は微々たるものにすぎない、と思い込んでしまったのである。そして、ガンジーもそれを信じていた。

仏陀は明確にカーストを否定している。人は生まれによってバラモンになるのではなく、行いによってバラモンになる。これが仏陀の言葉である。もしも、このような思想を持つ者がインドを導いていたならば、インド社会の姿は、いまとは全く違うものになっていただろう。

私の勝手な想像にすぎないが、日本軍がインドの開放を主導していたならば、おそらくそれに近い社会が生まれていたのではないかと思う。少なくとも、いまとは別のインドになっていたはずである。

3.終わりに

インパール作戦がどのような歴史的な価値を持っていたのか、以上の議論で明らかにできたと思う。

私はガンジーが好きではない。彼の非暴力は偽善にしか見えない。チャンドラ・ボースがどんな人間だったのかよく知らないが、彼のほうがインドの指導者にふさわしかったのではないかと思う。

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