キリスト教の問題

1

キリスト教の教義には矛盾があります。この論考で、それを明らかにしようと思います。

キリスト教徒とは、次の二種類の命題を信じている者のことです。

 一つ目は、イエスは神であるということ。

 二つ目は、イエスは一度死に、その後復活したということ。

以上の二種類の命題を、両方ともに信じている者がキリスト教徒である、ということにしましょう。

2

さて、イエスが神である、という一つ目の命題が真であるとしてみましょう。

このことは、イエスと神とが同一のものである、ということを意味します。では、一体誰が、イエスを生き返らせたのでしょうか。というのも、もしも、イエスと神とが同一のものであるならば、イエスが死んだとき、同時に神も死んだのでなければならないからです。

たとえば、二人の人物 A、B がいるとしましょう。もしも、A が死んでいる間、B が生きていたとしたら、この二人は同一人物ではありえません。もしも A と B が、同一人物の二つの異なる名前であったならば、A と B の生死は一致していなければなりません。

したがって、イエスが神であるならば、イエスが死んでいる間、神もまた死んでいたことになります。しかし、死んでいる神にイエスを生き返らせることはできません。では、一体誰がイエスを生き返らせたのでしょうか。それが神でないとしたら、悪魔でしょうか。

一つ目の命題が真であるならば、二つ目の命題は成り立たないのです。

3

次に、イエスが復活した、という二つ目の命題が真であるとしてみましょう。

この場合、イエスが死んでいる間、神は生きているのでなければなりません。なぜならば、神にしか、死んでいるイエスを蘇らせることはできないからです。したがって、イエスが死んでいる間、神は生きていたことになります。この場合、イエスと神とは同一ではありえません。

よって、二つ目の命題が真であるならば、一つ目の命題は成り立ちません。

4

最後に、一つ目の命題が真であり、かつ、イエスと神とが共に生きていた、という場合を考えてみましょう。

この場合、イエスが死んだ、というのは、地上の人間の目にそう見えていただけであって、実際には死んでいなかった、ということになります。ゆえに、この場合でも、イエスの復活は成り立ちません。イエスは一度も死んでいないのですから。

5

以上の考察から、二つの命題が二律背反の関係にあることが分かります。一方が正しいならば、もう一方は必ず誤りです。

しかし、キリスト教徒の信仰とは、この二つの命題を二つともに信じることでした。したがって全てのキリスト教徒は、少なくとも一つは必ず、誤った命題を信じている、ということになります。ゆえに、キリスト教の信仰を持つことは、それ自体が誤りである、と言うことができます。このような信仰を認めることはできません。

6

では、正しい信仰とは何でしょうか。

正しい信仰とは、正しい考えを信じることです。

正しい考えとは、仏の教えです。

ゆえに、正しい信仰とは、仏の教えを信じることです。

7

我々は、信教の自由を認めるべきではありません。正しい信仰は認められるべきですが、間違った信仰を認めるべきではありません。

しかし、私は特に、憲法を改正すべきだ、と言いたいわけではありません。私の知る限り、日本の憲法には「篤く三宝を敬え」と記されています。三宝とは、仏と、仏の教えと、修行者の集まりです。

日本にはすでに、このような憲法があります。

仏教は日本の礎です。

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