捕鯨について

1

国際捕鯨委員会(IWC)では、多数決をとっているそうである。反対が多数の場合、すべての加盟国の捕鯨活動は禁止され、賛成が多数の場合、捕鯨は許可される。

しかし、そもそも多数決をとる必要などない。捕鯨をしたい国はすればよいし、したくない国はしなければよい。そして、捕鯨をする場合、どのような基準に則って、どのくらいの範囲であれば許容されるのか、という議論をしたほうが、よほど建設的である。

IWCの運営には明らかに文化的な偏りがあり、捕鯨の禁止を強制する方向に議論を進めようとしている。これは、国際機関の在り方として妥当ではない。ゆえに、日本がIWCを脱退したのは正しい判断だったと思う。むしろ、遅すぎたくらいである。

2

2.1

ヨーロッパ人は鯨を殺さないそうである。それは、ヨーロッパ独特の文化であって、普遍的なルールではない。

たとえばヒンドゥー教徒は、牛を殺さない、というルールを守っている。だが、それを他の人々に押し付けようとはしない。イスラム教徒は豚を食べないが、他人が豚を食べるのを禁止しようとはしない。

しかし、ヨーロッパ人は違う。彼らは、自分たちの文化を、世界中に押し付けようとしている。ヨーロッパだけ、文明が未発達なのである。

鯨は賢い動物だから食べてはいけない、と言う人がいる。では、頭の悪い鯨同士を掛け合わせて、頭の悪い鯨の血統を作れば、それは食べてもよいのか。

そのような理屈があるわけがない。結局、ヨーロッパ人が鯨を殺さないのは、タブーの一種であって、賢いから、というのは後付けの理由にすぎない。

鯨を殺してはいけない、という文化は、確かに素晴らしいものである。だからといって、それを他人に押し付ける必要はない。

2.2

鯨は人間ではない。ただの動物なので、取って食べてもよい。あたりまえのことである。生き物は毎年新しく生まれてくるので、その分だけ食べるようにすれば、生き物の数は変わらない。その程度であれば、食べてもよいはずである。

蟹は一度に一万個の卵を産むが、その中で大人になるのは二匹くらいである。残りの九千九百九十八匹は、他の生き物に食べられるなどして、すべて消費されてしまう。自然界は太古の昔から、大量生産大量消費である。

2.3

人間の文化は常に人間の外、自然の中にある。人間の中をいくら探しても、人間独自の精神など、何一つ見つからないだろう。我々の文化はすべて、自然から与えられたものである。人間が作り出したものではない。

鯨を食べることで、鯨を知ることができる。そうすると、その分だけ人間の文化は豊かになる。食は文化である。それは、自然を知るということでもある。

私が知る限り、最古の生物学の研究書は、アリストテレスの『動物誌』である。

その中で彼は、様々な生物の味を記録している。このエビは秋になると身が詰まっててうまいとか、この魚は冬になると脂がのってうまいとか、そういった記述に溢れている。

科学にとって重要なのは、人間の感覚である。自然を知るためには、五感を活用しなければならない。

3

仏教にタブーはない。タブーという感情を克服することが、仏教の価値である。仏教における不殺生とは、慈悲の心から起こるもので、理性に基づいた判断である。自分の判断によって、生き物を殺さない、と決めることである。

一方で、タブーは、理性的なものではない。それを食べてはいけない、ということになっているから、食べないだけである。それは個人の判断とは関係のないところで決められている。タブーとは、自分の判断によらず、他人の言葉に盲目的に従うということである。この意味で、キリスト教はタブーの宗教である。

仏教徒は、他人の言葉によらず、自分の判断に基づいて行動する。何がよいことであり、何が悪いことであるかは、自分で判断しなければならない。

3.1

キリスト教においては、神の存在を疑うことはタブーである。

しかし、どうして神が存在すると言えるのだろうか。それは、イエスがそう言っているからである。モーセがそう言っているからである。彼ら預言者の言葉を疑ってはならず、我々はそれを無条件に信じなければならない。それがタブーである。

実際には、私は神を見たことがない。だから、それを信じる理由はない。神が存在するという確実な根拠も知らない。おそらく、私以外の多くの人もそうだと思う。つまり、神が存在するという判断を、自分の経験に基づいて下せる人はいない。自分の判断を他人に預けることなしに、神を信じることはできない。

キリスト教の信仰には、理性的な要素は全くない。それはただの迷信である。

3.2

ついでに言わせてもらえば、マルクスの経済学や、フロイトの精神医学、ダーウィンの進化論、ユダヤ教などは、キリスト教と同じく、すべて迷信である。

特に、精神医学については注意を促しておきたい。精神医学が日本社会に及ぼした悪影響は、非常に大きなものである。おそらくその影響力は、マルクス主義以上だと思う。現代社会においては、宗教の持つ影響力はそれほど大きくない。それよりも、ここで挙げたような疑似科学の方が、無視できない影響力を持っている。

だいたい精神科医の言うことは、呪術師と変わりがない。母親だとか父親だとかの訳の分からないストーリーをくどくど述べ立てるだけで、それが科学だと思い込んでいる。彼らが実践しているのは、科学ではなく、シャーマニズムである。このような荒唐無稽なおとぎ話を大の大人が信じるようになったのだから、日本人が劣化したと言われるのも故のないことではない。いわゆる精神医療はただの詐欺である。

また、ダーウィニズムは、もともと科学理論と言うほどのものでもない。だが、優性思想と結びついたとたんに、有害さを増す。ダーウィニズムがもたらすものは、遺伝子とその表現型という二元論である。これは、能力とその働きという二元論と類比的であり、さらに言えば、可能態と現実態という二元論と同型である。これは、アリストテレス以来、すべての西洋思想が抱える宿痾とでも言うべきものであり、注意を要する。

3.3

重要な問題なので、ダーウィニズムの二元論について、もう少し説明してみたい。以下、この章の終わりまで哲学的な議論になるので、苦手な人は飛ばしたほうがいい。


アリストテレスの術語を用いれば、遺伝子は可能態であり、表現型は現実態である。全ての能力は、その発現とは別に、それ自体として存在する、という考え方が、この種の二元論の基本である。

たとえば、難しい漢字をすらすら書ける人がいたとしよう。漢字を書くということは、その人の行為である。そして、その人にそのような行為をなさしめているもの、その人がそれを行うことを可能にしているものが、その人に内在している。それが能力である。この場合、漢字を書くことができるという能力が、その人の中に存在していると考えられている。その能力が発現した時に、能力が働きへと移り変わり、漢字を書くという行為が実現される。これが、能力とその働きという二元論である。ダーウィニズムにおいては、遺伝子と表現型という概念が、全く同じ役割を担っている。

この種の考え方には一種の矛盾が含まれている。まず、能力とその働きは区別されうるものなのか、という問題がある。もしも、能力というものが、それ自体として存在するものであるならば、そして、その働きというものも、能力とは別個に存在するのだとすれば、いったい能力とその働きとの間には、どんな関係があるのだろうか。

能力が原因となって働きが生じるのだろうか。その場合、働きが生じた瞬間に、能力は消えてしまうのだろうか。それとも、その働きが続いている間ずっと、能力も存在し続けているのだろうか。

能力が歯車のようなもので、それが、働きというもう一つの歯車を回しているのだとすれば、その歯車が回っていない間は、それを能力と呼べるのだろうか。つまり、能力そのものが、その能力の発現に際して変化しうるのだとすれば、そもそもどうして能力の存在を仮定する必要があるのか。

能力というものの存在が必要とされたのは、ある行為をなしうる人と、なしえない人の違いを説明するためであろう。ある人にはこれができるが、別の人にはできない。そのときに、前者には能力があり、後者には能力がない、と言われる。それが実在するものであると仮定し、前者の中に能力というものが存在する、と考えることから二元論的な思索が生じる。

しかし、その能力というものは、行為を説明するために必要とされたものである。したがって、能力と行為とを結びつける必要がある。つまり、能力が発現されたときに、行為が現われる、ということである。だが、ここに問題がある。

いったい、能力が発現するとはどういうことか。能力というものが既に存在するのであれば、それがさらに存在しなおすことはできない。しかし、能力が存在しないものであるならば、それによって行為を説明することなどできるはずがない。そして、能力そのものが、発現しない状態から発現する状態へと変化しうるのだとすれば、そもそも能力の存在を仮定する必要はない。なぜなら、その行為をなしうる人自身が、行為を行わない状態から、行為を行う状態へと変化した、と考えれば済むからである。この説明には、能力という概念は現れない。

突き詰めて考えれば、能力とその働きという二元論による説明には、つねに矛盾が付きまとっていることが分かる。それゆえに、私はそれを迷信と呼ぶ。そして、その矛盾の根底にあるのは、存在に対する信仰である。それが能力であれ何であれ、およそ、何らかのものが存在する、という考えはすべて、それ自体矛盾を含んでいると言いうるのである。これを仏教では空観と呼ぶのであるが、詳しくは別の論考に譲る。

では、仏教ではこれをどう説明するのかと言えば、それは縁起であり因果律である。原因があるから結果があるのであり、そこに何らの存在をも仮定する必要はない。この考えをどのように生物学に応用しうるかは、ここでは述べない。

また私は、個人的には、ダーウィンの進化論よりも、今西進化論に共感を覚える。

3.4

精神医学の問題点は、意識の存在を仮定していることである。ある気分と、それを感じる主体とを区別して考えている。それが、精神医学における二元論である。たとえば、落ち込んだ気分とは別に、それを感じる主体の存在が暗に仮定されている。では、そのような主体が存在する、という主張には、どのような根拠があるのだろうか。

もしも、ある気分とは別に主体が存在するのだとすれば、いかなる気分も持たない主体というものも存在しうることになるだろう。それは一体どういうものなのか。また、その主体が常に何らかの気分とともにあるのだとすれば、なぜ、そのような主体の存在を仮定することができるのか。我々が感じるのは気分だけであって、その気分を感じる主体というものを認識することはできない。それなのに、なぜ、そのようなものが存在すると言いうるのか。

あるいは、あなたは次のように反問するかもしれない。このような問いを発する私自身が、主体として存在しなければならないのではないか、と。しかし、その必要はない。なぜなら、私がこのような言葉を発するのは、いま私が抱いている考えと過去の経験とを原因としており、主体の存在を仮定しなくても、これらの現象を説明することは可能であるから。また、「私」という言葉は、言語習慣に従って便宜上用いているだけであって、「私」という単語に相当する実体を仮定する必要はない。

また、何かを認識するためには、それを認識する主体が必要だ、と考える人がいるかもしれない。その場合、認識する主体は、認識作用が始まる以前から存在していることになる。それならば、何の認識作用もないのに、どうしてその存在を認識することができるのか。このように考えても、主体が存在するという仮定には根拠がないことが分かる。

ゆえに、いわゆる意識や主体の存在を仮定する必然性を証明することはできない。しかし、そのような主体の存在を仮定しなければ、精神医学というものは成り立ちえない。したがって、精神医学には普遍的な妥当性が欠けている、と言わざるをえない。

フロイトは無意識の存在を証明したが、意識の存在は証明しなかった。意識の存在は、ただの迷信である。さらに詳しく知りたい人は、龍樹の『中論』を研究してみてほしい。

3.5

人間は、ただのタンパク質の塊である。そこに意志や感情が宿っていると考えるのは、一種の擬人化である。我々は、人間ですら擬人化して語っているのだから、犬や猫を擬人化してはいけない、という法もなかろう。

西洋の生物学には、どことなく禁欲的なところがあって、人間の魂の持つ神聖さを犯さないように、細心の注意を払っているように見える。それで、動物の擬人化は正しくない表現だと見なされることがある。そうした考え方は一種の偏見であって、明らかにキリスト教に由来しているのだが、西洋の学者たちは、そのことに全く気付いていないらしい。

しかし、人間の精神と動物の精神の間に明確な区別がある、と考えるべき根拠が、一体どこにあるだろうか。

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