『西遊記』と『ベルセルク』

私は西遊記が好きで、漫画では諸星大二郎の『西遊妖猿伝』が大好きである。

私は、西遊記で一番重要なキャラクターは沙悟浄だと思う。悟空と八戒はアクが強く、この二人だけだと収まりがよくない。悟浄が加わって三人になることで、ようやく旅の仲間としてまとまりが出てくる。『妖猿伝』でも、悟浄が出てくる大唐編の終盤まで、主要キャラクターが一緒に旅をすることはない。

西遊記は、全体が大きく二部に分かれている。第一部は、悟空が天界で大暴れする話である。仙人の桃を盗み食いしたり、霊薬を飲んだりして大騒ぎになり、天界の神々が総出で悟空を捕まえようとするが、上手くいかない。最後にお釈迦様が現われ、悟空を五行山の下に封じ込めて、第一部は終わりである。その罪滅ぼしをするために、第二部で三蔵法師と共に西天取経の旅に出る、ということになる。つまり第一部は、どうして悟空が旅に出ることになったのか、という因縁譚になっているわけである。因縁譚は全体の十分の一程度であり、取経の旅が物語の大部分を占めている。

この構図は、現代の物語にもよく見られるものである。たとえば『ONE PIECE』では、第一話でルフィーの幼少期が語られ、それによって、彼が旅に出る理由が明らかにされる。この場合、因縁譚が一話に短縮されているわけであるが、物語のタイプとしては西遊記と同じである。

『ベルセルク』は西遊記と非常によく似ている。この漫画も大きく二部に分かれる。第二部はガッツが妖怪退治の旅をする話であり、第一部ではその因縁譚が語られる。第一部の黄金時代編は、物語として非常によくできており、人気が高い。一方で、第二部は話が単調であり、第一部ほどの盛り上がりはない。

これは西遊記でも同じで、悟空が天界で大暴れする話はメリハリがあって面白いのだが、三蔵法師との旅はワンパターンでひねりがなく、読者はすぐに飽きてしまう。しかし、私はそれが好きである。はじめは単調でつまらないと感じるのだが、読み進めるうちにキャラクターに愛着がわいてくる。物語が終わるころには、もっと読みたいと思ってしまう。

実際には、この種の物語は、第一部で完結している。悟空が旅に出る理由が明らかになったということは、旅の目的が明らかにされたということであり、物語の終点が、第一部の終わりですでに示されているのである。あとはゴールに向かって進むだけなので、第二部が単調になるのは当然である。

これは長所でもあり短所でもある。短所というのは、話が単調になりやすいことである。長所は、いくらでも引き延ばしができることである。ルフィーがワンピースを見つけることは、実際には確定しているので、その途中の物語を好きなだけ引き延ばすことができる。つまり、ワンピースは、第一話で事実上完結しているのである。

ベルセルクも同じで、物語としては、これ以上語るべきことはない。ガッツがグリフィスを倒して、めでたしめでたしである。これ以外の終わり方はありえない。だから、あとは好きなだけ引き延ばせばよいのである。ベルセルクにドラマは必要ない。読者は、ガッツの妖怪退治の旅をいつまでも見ていたいのである。


蛇足になるが、ベルセルクと西遊記にはキャラクターの類似も見られる。ガッツは悟空、イシドロは猪八戒、セルピコは沙悟浄である。キャスカとファルネーゼは妖怪にさらわれる三蔵法師の役回りであり、シールケは、西遊記では毎回変わる「お助けキャラ」というところか。もちろん実際はもっと複雑だが、大筋はそのまんまという感じがする。

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