『鬼滅の刃』感想2

前回の続き。『鬼滅』の鬼は、どうやらゾンビではなくヴァンパイアだったようだ。

ゾンビの場合、ゾンビに咬まれた人間はゾンビになる。その人が他の人を咬むと、それもゾンビになる。ヴァンパイアの場合は、ヴァンパイアに咬まれるとヴァンパイアになるが、その人が他の人を咬んでも、それはヴァンパイアにはならない。人間をヴァンパイアにする力を持つヴァンパイアは一匹だけで、その親玉を倒すと世界は平和になる、という話である。だから、ヴァンパイアものは比較的落ち着いたストーリーになりやすく、ゾンビものは混沌とした話になりやすい。

ゾンビは動的で無秩序である。一方ヴァンパイアは静的で貴族趣味、階級が固定されていて、上下関係がはっきりしている。私は何百年も生きていて、毎日人間の血を吸っている。それも最近飽きてきたなあ、みたいなアンニュイさがある。金持ちのボンボンが遊びすぎて疲れた、という感じである。そういう苦労知らずの貴族たちをバッタバッタと切り倒すのが『鬼滅』の醍醐味なので、今ふうといえば今ふうなのかもしれない。

ジャンプで吸血鬼というと『ジョジョ』が思い浮かぶが、呼吸のくだりは少し似ている。また、ヴァンパイアの耽美さは女性が好む印象がある。


もう一つ気になったことは、物語の単純性である。一体一体の鬼には人間であった頃のエピソードが与えられているが、それが単なるトラウマ話の域を出ない。普通の人間が心の闇に付け込まれ鬼になったのだ、という話の流れは、プリキュアと大差がない。ある種の予定調和である。

このストーリーの見通しのよさという点は、『鬼滅の刃』の特徴の一つだろう。ありきたりな言い方をすれば、現実社会の先行きが不透明になっている中で、世人が先の読めるフィクションを求めた、という解釈も成り立つ。しかしここまでストーリーが固定化してしまうのには、何か理由があるような気もする。

上で名前を挙げた『ジョジョの奇妙な冒険』について見てみると、これは正統なヴァンパイアものとは言えない。ふつうヴァンパイアは血の関係を重視するものだが、『ジョジョ』の場合は石仮面によって人間がヴァンパイア化することになっている。これはむしろ、ゾンビパウダーによって人間がゾンビ化する話に近い。ヴァンパイアが生まれる契機を一種のギミックに担わせている点で、登場人物の関係性にすでに乱数が入り込んでいるといってもよい。典型的なヴァンパイアものでは、ヴァンパイア同士の関係は血のつながりのみによっているので、不確定要素が入り込む余地が少ない。そこにギミックを一つ挟むことで、物語の単純化を拒んでいるのである。

『ジョジョ』の面白さは、ストーリーの先が読めないところにある。次々と奇抜なアイディアが出てきて話が変化してゆくので、物語の着地点が見えない。それはある種のユーモアとも言える。読者が予想もしなかった展開を用意することで、興味を引き付けるのである。ケレン味とか子供だましと言われることもあるが、娯楽作品としては効果的な手法である。

このようなストーリーのぶれは、ジャンプ漫画の特徴の一つだったと思う。おそらく編集部が漫画のシナリオに介入することが多かったことも理由の一つであろうが、昔のジャンプ漫画はストーリーが安定せず、それが独特の面白さを生み出していた。たとえば西尾維新は、そのようなジャンプ漫画の不安定さを意識的に模倣することで、独特の小説世界を作り出していたと言える。その不安定さが、『鬼滅』には欠けている。それはなぜか。

こういう言い方は批判されかねないが、あえて言うならば、作者の性別が一番の理由であろう。女性の中にもジャンプ漫画の熱烈なファンがいることは、以前からよく知られている。彼女たちは、少年同士の友情によこしまな解釈を施して楽しんでいたりするのだが、そういう女性の一人が少年ジャンプで漫画を描く側に回った、ということではないのか。上述の西尾維新もジャンプで連載を持っていたことがある。お世辞にも面白いとは言えなかったが、ジャンプ漫画の模倣をジャンプの中でやるということが、これ以降しばしば起きるようになったのではないか。

西尾の場合は、ジャンプ漫画特有の不安定さを模倣するという点で、ある意味では面白い試みであった。だが『鬼滅』のそれは、ただの模倣あるいはパロディにすぎない。なぜそうなるかというと、作者が女性だからである。女性の作る物語には深みがない。なぜならば、女性には社会性がないからである。女性が描くものは自らの内面にある感情だけであって、そこに現実社会が反映されることはまれである。そのために、男性作家が持ちうる不安定さが女性には欠けてしまう。つまり、女性が本来持っている自己完結性が作品に反映されることで、単純で予定調和に満ちた物語が生まれるのである。そういう単純な話が最近は増えていると思う。

それがよいか悪いかは分からない。ただ、最近の娯楽作品がそういう方向に向かっていることはたしかである。男女の平等があまりにも頻繁に主張されるようになった結果、本当に男女は平等なのだと思い込む人間が増えてしまった。だが、男女は決して平等ではない。男には男の個性があり、女には女の個性がある。

すべての女はこれこれであるとか、すべての男はこれこれであると言うことはできない。しかし、多くの女はこれこれであり、多くの男はこれこれである、と言うことはできる。多くの女が持っている性質を多くの男が持っておらず、多くの男が持っている性質を多くの女が持っていない、ということはありうる。ゆえに、一般的に言って、男女は平等ではない。女性の描く作品はすべてつまらない、と言うことはできないが、女性ならではの個性が発揮された作品が、それ故につまらない、ということはありうる。

もとよりこれは好みの問題である。だが、これが事実であることは認めなければならない。女性作家が描くものよりも、男性作家が描くものの方が面白い、と私は思う。

私はヴァンパイアものはあまり得意ではないので、『鬼滅』は保留中である。また、そもそもこの分野に詳しくないので、「典型的なヴァンパイアもの」がどういうものなのか、実のところよく分からない。なんとなくの印象で語らせてもらった。

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