大智度論の成立過程

大智度論はどのように成立したのか、ということに関しては、様々な考察がなされてきた。ある人によれば、それは龍樹の作ではない。他の人によれば、半分は龍樹の作である。ここで、大智度論を読んでいて、私なりに気付いたことを述べたい。

はじめに気付くことは、文章の流れが不自然に切られている部分が多いことである。それまでの脈絡とは関係のない文章が、唐突に挿入されている部分がある。まるで複数人の書いた文章が、無理やり一つにまとめられたように感じる。またその中にも、非常に面白く上手な文章もあれば、退屈で下手な文章もある。これはひょっとすると、先生の書いた文章と、生徒の書いた文章が混じっているのではないかと思った。


つまり、大智度論の元になったのは龍樹の講義録である。おそらくはじめは十巻くらいのものだったのが、龍樹学派の中で読み継がれ、書き足されてきた。先生の解説と、質問に対する生徒の答えが同時に記録されているので、文章に脈絡がない。そのような講義ノートが、大智度論の原型だったのではないか。時代を経てノートの内容が充実していき、現在の大智度論の形になった。

だがもしかすると、本来の大智度論はもっと大きかったのかもしれない。三百巻や四百巻くらいある講義ノートの中から、鳩摩羅什が面白い部分を抜き出し、編集して百巻にまとめた。そうだとすると、そもそもチベットやネパールには、原典は伝わっていないことになる。初めから完成した書物の体裁を持っていなかったので、写しがとられることもなく、ただ羅什だけがその価値を認め、翻訳した。それが現在まで東アジアで読み継がれてきたのではないか。多分、このような意見は他の方も述べられていると思うのだが、私の感想が参考になれば幸いである。


それにしても、訳経僧とはすごいものである。大智度論を一、二巻訳すだけでも大変なのに、彼らは千万巻もの経典を一生の間に翻訳したのだから。菩薩鳩摩羅什と菩薩龍樹に感謝と敬意を捧げる。さとりに幸あれ。

タイトルとURLをコピーしました