日本学術会議の一件

現内閣が、日本学術会議の会員の任命を拒否したことが話題になっている。安倍・菅内閣の無軌道ぶりは今に始まったことではないので、このニュース自体には特に感想はない。ただ、今回のニュースで改めて確認させられたのは、日本政府の学問に対する無関心さである。

政府が科学研究に金を出し渋っていることはよく知られているが、それが世間に認知されるきっかけになったのは、民主党政権下の事業仕分けによってであろう。もちろん民主党だけが悪いというのではなく、自民党に政権が交代しても状況は改善しなかった。そうして日本が学問をおろそかにしている間に、中国の科学者たちは政府から手厚い支援を受け、その知識と技術を格段に向上させていた。日本の科学者は、それを悔しさと羨望の入り混じったまなざしで見つめるしかなかったのである。


思うに、人類の科学は長らく停滞を続けている。量子力学の原理が確立されたのはもはや百年前であり、セントラルドグマが確立されたのは七、八十年前の一連の研究によってである。それ以来、科学の世界には本質的な変化は何一つ起きていない。たしかにIT技術の発展は目覚ましいが、基礎科学の分野では一世紀近く停滞が続いているのである。

実際には、これら基本原理の見直しを迫るような事象は大量に発見されている。たとえば、物理学における分数量子ホール効果の発見は、明らかに量子力学に見直しを迫るものであった。この現象は、原子論に基づく現行の量子力学によっては説明できないものである。また、生化学の分野において、iPSや万能細胞の研究が明らかにした事実は、セントラルドグマを根底から覆すものだと言ってよい。塩基配列はもはや生命のグランドデザインではなく、複雑な生化学反応の一端を担うものでしかなくなってしまった。

このように、既存の科学理論を揺るがすような証拠が積みあがっているにもかかわらず、科学者たちはいまだに古い理論に固執している。それは、かつてトマス・クーンが指摘した科学者の保守性の現れであろう。過去に成功した理論は、これからも成功する確率が高い、という蓋然性に対する信頼である。しかしながら、いつかは過去のパラダイムを捨て、新しい理論を作り出さねばならないときがくる。それが今である。

STAP細胞は、本来ならば、そのような新しい生物学を探求する第一歩となるべき研究であった。それが世間からの非難によって頓挫させられてしまったことは、科学にとって大きな損失だったと言わねばならない。CRISPRは旧時代の遺物である。我々は、塩基配列の向こう側にある科学を探求せねばならない。


付け加えておくが、私はSTAP細胞が存在すると言いたいわけではない。一連の調査によって、万能細胞の存在は、他の試料の混入によって説明がつく、という結論になっていたと思う。ただそれは、そういう説明も可能だというだけであって、実際にSTAP様の細胞が生じていた可能性が否定されたわけではない。もしもそれが本当にできていたのだとすれば、それはどうしてなのか、ということを考えてみるべきではないのか。私自身、細胞の万能化について勉強するにつれ、STAP細胞がそれほど特別なものだとは思えなくなっている。そういうものがあってもおかしくないのであれば、それが生じうる条件について考察する必要があるのではないか。

いま振り返ると、STAP細胞に対する拒否反応は、既存の理論を守りたい、という科学者の保守性の現れだったような気がしてならない。あれは非常に破壊的な研究であり、生物学の常識を覆すようなインパクトがあった。それを否定し、いままで通りの科学を続けたいという執着が、あのような騒動を引き起こしたのではないだろうか。

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