思想雑感2

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日本語に対して、中国語は外国語だと考える人が多い。たしかに北京語は外国語と言ってもよいが、漢文は外国語ではない。なぜならば、それは日本語の成り立ちに深くかかわっているからである。

日本人にとって、漢文は外国語ではない。それは我々の言語の一部である。中国の人は、漢文を音で読むしかない。そのため彼らには、漢文の意味がすぐには分からない。しかし日本には、訓読という文化があるため、何も訓練を受けなくても、訓で読めば意味が分かる。これは中国語にはない、日本語の利点である。

日本語は漢文の訓を通して発達してきたのだと思う。ゆえに、日本語を学ぶことは、漢文を学ぶことにつながる。そしてまた漢文を学ぶことで、日本語をよりよく扱えるようになる。これが日本語学の基本ではないか。

2

中国では諸子百家といって、春秋戦国時代にたくさんの思想家が現れた。その思想内容は焚書坑儒によって失われたものが多く、詳細を知ることは難しい。しかし、現代に残された資料からだけでも、それが高度なものであったことは十分に分かる。

諸子百家の中に易家というものがあり、易経という本がある。これは占いの本だといわれ、私もその通りだと思うが、同時に興味深い思想を伝えているようにも思われる。陰陽の二爻を三つ組み合わせて八卦、八卦が二つで六十四卦あり、この組み合わせによって、神羅万象すべてを理解しようとする。

私は、これは梵網経に似ていると思った。小乗経典の一つである梵網経には、釈迦が語ったすべての思想が網羅されている。この経典によれば、梵網経におさめられていない思想は存在しない。人間が思考しうるすべての思索が、この短い経典の中に含まれているのである。これは、人間の認識能力の限界を量ろうとするものであったと考えられる。

易経にも、梵網経と同じ思想が反映されている。それは、自然を人間の方から読み解くという観点である。自然そのものを分析することは難しいので、自然に対する人間の認識を分析することで、自然を理解しようとしたのである。我々が物事をどのように認識しうるか、という人間の認識能力の限界が、六十四卦によって網羅されている。非常に高度な思想の体系であると思う。

3

諸子百家の思想の中には、その後の歴史に現れたすべての思想が先取りされていたのかもしれない。それと同じような思想の爛熟期が、インドにもあったと考えられている。いわゆる六師外道の時代である。この時期に様々な学派が登場し、その後のインド思想史を決定づけることになる。

中国と同様インドにおいても、人々の関心を集めたのは道徳の問題である。ただ、中国と違うのは、道徳を真っ向から否定するような主張を行った人々が、インドには多かったことである。その中で釈迦は異色であった。彼は、道徳を守り抜く姿勢を見せたからである。

仏教とは諸悪莫作であり、悪を為さないことである。これは七仏通戒偈といわれ、どの宗派でも重んじられる言葉である。これを、当たり前のことではないか、と思う人が多い。そんなことは言われなくても分かっている、と。もちろんその通りなのだが、それを理屈をつけて説明するのがなかなか難しいのである。

いかに高名な学者でも、どうして人を殺してはいけないのか、という質問に答えることは難しいとされている。悪いことをしてはいけないことは分かっているが、どうしてそれがいけないのか、という説明をするのは難しい。むしろ我々は、悪いことをしてもよい、という言葉の方をよく聞くのではないか。なんやかやと理屈をつけて、人を殺してもよい、と主張することは実は簡単なことである。

たとえばキリスト教では、それが悪人であっても、神を信じていれば天国に行けることになっている。これは諸悪莫作とは真逆である。悪いことをしてもよい、と言っているに等しい。こういう風に勝手な理屈をつけることで、道徳を否定することは簡単である。それと比べて、道徳を否定する様々な主張に逆らって、諸悪莫作を守り抜くことは遥かに難しい仕事である。それを難なくやってのけたので、仏の教えは尊いと言われる。

道徳を重んじる仏の言葉は、倫理感の強い中国人の心にも響いた。そのため仏教は、儒教や道教と並び称されるようになったのである。

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