現代人の死生観

現代人は、人は死ねば無になる、と考えている。あるいは、死ぬとただの物質になる、と。それは裏を返せば、生きている間は、人はただの物質ではない、ということを意味している。つまり、生命のある状態とない状態を厳密に区別しているのである。

これは、現代人が霊魂を信じていることを意味していると考えられる。生きている間は魂があるので、ただの物質ではない。だが死んでしまうと魂がなくなり、ただの物質になる、ということである。人は死ねば無になる、という考えが近代的な合理主義なのであれば、合理主義はただの迷信にすぎない。その本質は霊魂への信仰である。

実際には、死ぬ前から人間は物質である。物質が飯を食い、糞をして寝ているだけである。だから、死んで物質になるという考えは不合理である。仏教ではこれを無我と言う。

物質には生命はないが、人間には生命がある、という考えが誤りだとすれば、生命と物質の間に明確な区別はないことになる。

動物とはものが動くことであって、動くものを生命と呼ぶ。たとえば人間の死体も、放っておくと動き出す。もちろん手足を動かすわけではなくて、肉が腐りガスがたまって、破裂したりする。しかし腐敗現象は微生物の作用によるものだから、人間が生きているとは言えないのではないか、といえば、人間の腸内には数兆の微生物が生息し、それが我々を生かしているわけだから、生きている人間も微生物によって動かされているという点では、死体と変わりがないとも言える。そう考えると、生と死に区別をつけること自体が不合理なのだと分かる。

ここに、名字によって区別をつける、という人間の習慣がよく現れている。生も死も単なる名前にすぎないのに、その名前に実体があると考えてしまう。そこから霊魂とか自由意志とか、様々な迷信が生み出される。そのなれの果てが近代合理主義なのだから、それはまさに不合理の極みである。


言葉があるから嘘が生まれる。言葉は人をだますための手段となる。

現代の社会では、話し合いが尊ばれる。どんな問題も話し合いによって解決されるべきであり、戦争によって問題を解決することは間違いだ、と考えられている。しかし、話し合いで一番得をするのは、嘘をつく人間である。人をだますのが上手い人間が、最大の利益を得る。それが話し合いの本質である。一方で戦争においては、嘘つきの出る幕はない。どれだけ嘘が上手くても、自分を守る術がなければ負けてしまう。

一般に、戦争は暴力だと思われているが、そうではない。戦争では腕力のある者ではなく、知恵のある者が最後には勝利する。だから、戦争が最もフェアである。

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