事実と言葉

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 中国人の書く文章は信用できない。彼らには、嘘と本当の区別がついてないように見える。
 日本人の場合、言葉というものは、事実を表現するためのものだという感覚がある。しかし、中国人にはそもそも、事実とそうでないものの区別がない。そのため、彼らの書くものはどこか現実離れしている。人間が文章を書いているというより、文章に書かされているような感じがある。

 言葉というものは、放っておくと、言葉そのものの論理が優先されてしまって、事実からかけ離れていくという性質がある。そのため文章を書くときは、一度立ち止まって現実を振り返る、という作業が必要になる。そうしないと、筋は通っているが、現実とは何の関係もない作文が出来上がってしまいかねない。
 中国人の書く文章は、大体そういうものである。それは昔の話ではなく、今も同じである。だから、彼らの話を聞くときは、その点に注意しなければならない。最近の日本人は、学者であっても、中国人の言うことをナイーブに信じてしまう人が多い。困ったことだと思うが、これも日本が中国化しているということなのかもしれない。

 日本人が中国人を虐殺したという話は、ぜんぶ嘘だと思ったほうがいい。彼らには、現実を語ろうという頭はない。中国人の言葉は、すべて政治的なものである。

2

 一方で、事実に対する日本人の謙虚さは、特筆すべきものである。彼らは現実感覚に優れている。
 大抵の日本人は、自分は普通の人間だと思っている。自分は他の人間と変わりがない、と感じている。しかし世界的に見て、それは異常なことである。一般的な中国人やアメリカ人は、自分だけは特別な存在だ、と思い込んでいる。それが普通である。
 日本人は、自分自身を客観的に観察することができる、世界的に見ても稀な民族である。そのことを、もう少し自覚したほうがよい。とくに外交関係においては、それは強力な武器になるものである。

 しかし、また愚痴のようになるが、最近は日本人らしからぬ日本人が増えている。中国人やアメリカ人のように、自分は特別だと思い込む人間が増えている。だが、現実にはどの人間も、人間集団の中の一つでしかない。人間は人間であって、どれもだいたい同じである。その客観的な事実を、事実として受け止められるようになるべきである。
 人間の命は掛け替えのあるものである。代わりはいくらでもきく。それが事実である。ゆえに、命を尊重するべきではない。尊重されるべきは、命ではなく知恵である。

3

 子を思う母の心は利他的なものだ、という話をときどき耳にする。しかし、それはただのエゴイズムである。なぜならば、その母は、他人の子供を、自分の子供と同じように大事にするわけではないから。自分のものだから大事にする、という態度をエゴイズムという。それは何ら尊いものではない。

 大量死や大量生といった問題は、命を尊重する文化に特有のものである。命は尊重されるべきものではあるが、しかし現実には、すべての命を救うことはできない。その事実に直面したときに、命の価値を測ろうとする考えが生まれてくる。
 たしかに命は尊いが、そこには、救われるべきものとそうでないものの違いがある、という形で、問題を処理しようとする。その意味で、大量死と大量生は、やはり表裏一体のものである。

 一方で、自分の命と他人の命を平等に扱おうとする日本の文化からは、そのような問題は生まれにくい。命はすべて一時のものなので、あまりこだわっても仕方がない。そう考えるならば、生にも死にもとらわれる必要がなくなる。それが正しい文化である。
 命を尊ぶという場合、念頭にあるのは自分の命であろう。自分の命にこだわるから、知恵が曇るのである。

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