現代語訳大智度論 第六巻(下)

さふることなく、おそるるところなきことを
(足止めされることがなく、畏れることがないことを得る)

認識・感覚・感覚の対象の中に現れる種々の原因のなかに、心が足止めされることがなく、尽きることがなく、消滅することがない。これを「礙ることなく、畏れる所なし」という。

問 15

先に「諸々の菩薩は、無量の衆の中において畏れる所なし」と説いている。今また「礙ることなく、畏れる所なし」と説くのはどうしてか。

先に説いたのは、畏れることがないことの原因であって、いま説くのはその結果である。諸々の大衆や菩薩たちの中で、教えを説いて尽きることがなく、議論をして終わることがなく、心に疑いを持たない。すでに足止めされることがなく、畏れることがないことを得たためである。

次に、先に畏れることがないことを説いたときには、どんな力によって畏れることがなかったかを説明しなかった。そこでここでは、畏れることがないのは、足止めされることがないためである、と説明するのだ。

問 16

もし、諸々の菩薩は足止めされることなく、畏れることがないのだとすれば、仏と菩薩に何の違いがあるのか。

先に説いたように、菩薩自身に畏れることがない力があるのであって、仏の力ではない。

次に、足止めされないということ(無礙)に二種類ある。一つは一切処、二つは非一切処である。非一切処とは、人が、一から百千の経書の中にさまたげがなければ、一から百千の人々の中に入っても畏れることがないということである。菩薩は自分の智恵の中でさまたげがないのであって、仏の智恵ではない。

仏が鉢を放り投げたとき、五百の阿羅漢と弥勒などの菩薩は、誰も受け取ることができなかった。諸々の菩薩もこのように、自分自身の力についてはさまたげがないが、仏の智恵の中ではさまたげがある。

ことごと衆生しゅじょう心行しんぎょうおもむところり、微妙みみょうをもってこれを度脱どだつす。
(人々の心と行いがどのような結果を生むかを全て知り、深遠な智慧によってこれを彼岸に渡す)

問 17

どのようにして人々の心を知るのか。

人々の心の種々の状態を知ることは、日光が地上を万遍なく照らすようである。菩薩はすべての人々の心が習いとするところを知って、彼らに教える、

「すべての人々の習いとするところは二種類ある。一つは心に常に楽を求め、二つは知恵をはたらかせて好悪を区別する。あなたは執着する心に従わずに、智恵に従うように、自分自身の心を励ましなさい。あなたは、それが結局苦しみをもたらすことに気づかず、無数の劫の昔からずっと善悪の様々な行いを積み重ねて飽きることなく、ただ世間の楽しみを追い求めてきた。あなたは世間を見ていないのか。楽しみを貪れば憂いを招く。五道(天、人間、畜生、餓鬼、地獄)のそれぞれに生まれることは、すべて自分の心が招いた結果である。誰があなたにそれを強いることができようか。狂った象が柵を踏み破り、人を傷つけ殺し、それでもなお拘束されることがないようであれば、誰があなたを制御することができるだろうか。もしも、自らよく制御することができるならば、あなたは世間の愁いを離れるだろう。人々は、母体にあっては不浄であり、苦しみは地獄のようで、生まれてくれば老い、病、憂い、悲しみはごまんとある。もし天上に生まれたとしても、いずれ再び地獄に堕ちるだろう。三界に安全な場所はない。それなのに、あなたはどうして楽しむことに執着するのか」

菩薩はこのように、あなたの心はあなたの思いどおりにならない、と呵責する。これを、菩薩は人々の心を知るという。

問 18

どうして「深遠な知恵によってこれを彼岸に渡す」というのか。何を深遠な知恵と名付け、何を粗雑な知恵というのか。

世界に関する巧妙な知恵を粗雑な知恵と名付け、布施と戒律と瞑想の修業をすることを深遠な知恵と名付ける。

次に、布施の知恵を粗雑な知恵とし、戒律と瞑想の知恵を深遠な知恵と名付ける。

次に、瞑想の知恵を粗雑な知恵とし、依るところのない瞑想を深遠な知恵と名付ける。

次に、諸々の現象の性質に関する智恵を粗雑な知恵とし、諸々の現象の性質を離れた知恵を深遠な知恵という。

次に、無明などの諸々の煩悩にとらわれることなく理解された、諸々の現象の性質に関する智恵を粗雑な知恵といい、諸々の現象のありのままの姿を深遠な知恵という。この知恵は、たとえば純金が損なわれることがないように、また、ダイヤモンドが壊れることがないように、また、大空が染められず、汚されることがないように、尊い知恵である。このような無量の深遠な知恵は、菩薩が自ら得て、人々に教えるところである。このような理由で「人々の心と行いがどのような結果を生むかを全て知り、深遠な智慧によってこれを彼岸に渡す」と説く。

こころ罣礙けいげなし。
(心にさまたげがない)

問 19

どうして「心にさまたげがない」というのか。

菩薩はすべての怨みのある人、親しい人、怨みのない人、親しくない人に対して、心が留まることがない。

次に、全世界の人々の中から、人が来て彼に損害を与えても怒りや恨みを抱かず、種々に尊敬されても喜ばない。詩に言うように、

『諸々の仏や菩薩ですら、心に愛着せず、外道や悪人でも、心に怒りや憎しみを抱かない』

このような清浄な心を「心にさまたげがない」という。

次に、諸々の現象に心が留まることがない。

問 20

この菩薩はまだ仏になっておらず、まだ一切智を得ていない。どうして諸々の現象に心を留めることがないのか。

この菩薩は無量の清浄の知恵を得ているために、諸々の現象の中に心を留めることがない。

問 21

諸々の菩薩は、まだ仏になっていないのだから、無量の知恵を持っているはずがない。欲望が残っているために、清浄の知恵があるはずがない。

この菩薩たちは、三界の中で、業によって生まれた肉体ではなく、みな法身(智恵そのものとしての仏菩薩)の自由の身であり、老・病・死を離れているが、人々を哀れむために、この世界の中で修行をして、仏の国を美しく飾り、人々を教え導いている。すでに自由を得ているから、仏になろうとすればいつでもなれる。

問 22

法身の菩薩は仏と異なることがない。どうして一方を菩薩と呼び、他方を仏として礼拝し教えを聴くのか。もしこの菩薩が仏と異なるならば、どうして無量の清浄な智恵があるのか。

この菩薩は法身となり、老病死はないが、仏とは少し違う。十四日の月のように。人々は「満月か、そうでないか」と疑いを持つ。菩薩もこのようであり、仏になることができ、教えを説くことができるが、まだ本当に仏になったわけではない。仏は十五日の月が完全に満ち、疑いがないようなものである。

次に、無量の清浄というものに二種類ある。一つ目は実際には量があるが、量ることができないので無量という。例えば、海水やガンジス川の砂のように、人が量り尽くせないものを無量という。仏における無量とは異なる。菩薩の無量の清浄の知恵も、これと同じく、神々や人、声聞(小乗仏教の聖者、阿羅漢)、辟支仏(ひとりでに悟りを開いた聖者)にとっては量ることができないので、無量の知恵という。菩薩は生まれ変わることがなくなったときに、諸々の欲望を取り除いたので、清浄の知恵を得ることができた。

問 23

その時にすでに諸々の欲望を取り除いたのだとすれば、仏になるときには何を取り除くのか。

清浄に二種類ある。一つは、仏になるとき、残りの欲望をすべて滅ぼし尽して本当の清浄を得ること。二つは、菩薩の肉体を捨てて法身を得るとき、諸々の欲望を取り除いて清浄であること。たとえば、一つの灯が暗闇を取り除くと、ものが見えるようになるが、さらに大きな灯があれば、もっとよく見えるようになる。菩薩や仏が諸々の欲望を取り除くのもこれと同じである。菩薩が取り除くべき欲望はすべて除いたが、仏が取り除くべきものは、まだすべて除いていない。これを「無量の清浄な智恵を得たために、諸々の現象の中で心にさまたげがない」という。

大忍だいにん成就じょうじゅす。
(偉大な理解を獲得する)

問 24

すでに等忍(平等の理解)と法忍(教えの理解)を説いている(巻五、問九)。どうして今また「偉大な理解を獲得する」と説くのか。

この二つの理解の次の段階を、偉大な理解と呼ぶ。

次に、平等の理解は、人々の中でよく理解して柔軟であることをいう。教えの理解は、深遠な教えを理解することをいう。この二つの理解は次いで悟りの証しとなり、無生(空)の理解を得て、最後の身体のときに十方の諸仏が目の前に変化して現れ、空中に座るのを見る。これを「偉大な理解を獲得する」という。例えば、小乗の教えで、煖法の次の段階を頂法とし、頂法の次を忍法とするようなものである。

次に、二種類の理解がある。衆生の理解(生忍)と教えの理解(法忍)である。衆生の理解とは、ガンジス川の砂の数ほどの劫の間、人々に悪心を加えられても怒らず、種々に尊敬されても心に喜びを抱かない。

次に、生命に始まりがないことを観察する。もし始まりがあれば、その始まりは原因なく生じたということになるだろう。もし、その始まりにも原因があるなら、結局その始まりは始まりではないことになるだろう。そして、始まりがなければ、終わりもないだろう。というのは、始めと終わりは、お互いがお互いに対して成立するからである。始まりも終わりもないならば、中間も存在しないだろう。このように観察するとき、魂の不滅と死後の虚無という二つの極端な見解に陥ることはなく、平穏の道によって生命を理解し、誤った考えを抱かない。これを衆生の理解(生忍)と名付け、深遠な教えの中に疑いを抱かないことを教えの理解(法忍)と名付ける。

問 25

深遠な教えとは何か。

それについてはすでに答えている(巻五、問十)。再度説こう。十二因縁の中で、原因は次々に結果を生じる。だが、原因の中に結果があるのではなく、また、原因の中に結果がないのでもない。にもかかわらず、その中から結果が現れる。このことを深遠な教えという。

次に、空と、性質のないことと、行いのないことという三つの解脱の門に入って、涅槃の永遠なる安らぎを得ることができる。このために、これを深遠なる教えという。

次に、すべての現象は空ではなく、空でないのでもなく、すべての現象には性質があるのでもなく、ないのでもなく、すべての現象の中には自分自身の行いがあるのでもなく、ないのでもない、と観察し、しかもこのような観察それ自体にも執着しない。これを深遠な教えという。詩に言う、

『原因によって生じた現象を空と呼び、仮の名前と呼び、中道と呼ぶ。

もし、ある現象がそれ自体で存在しているならば、それが無になることがあるはずである。今は無であり、過去には有であったということ、これが死後の虚無につながる考え方である。

永遠でなく、虚無でなく、存在するのでも存在しないのでもない。認識の対象が消滅すれば、言語も途絶える』

この深遠な教えに対して信仰を抱き、疑いを持たず、後悔せず、諦めないことを「偉大な理解を獲得する」という。

じつのごとくたくみにす。
(本当に、巧妙な手だてによって彼岸に渡す)

外道の教えがあり、それも人々を彼岸に渡すというが、本当に彼岸に渡すわけではない。なぜならば、種々の誤った考えに基づく執着が残るからである。小乗と辟支仏は彼岸に至ることもあるが、ふさわしく行うのではない。なぜなら、彼らには一切智がなく、方便が未熟だからである。ただ菩薩だけが、本当に巧みに彼岸に渡すことができる。例えば渡し場で、一人は浮き袋や筏で客を渡し、もう一人は繋がれた二艘の船で客を渡すとしよう。この二者に大きな差があるように、菩薩は他と比べて巧みに人々を彼岸に渡す。

次に、例えば、病気を治すことを考えよう。苦い薬や針灸は、苦かったり痛かったりするが、病気は治る。しかし、スダシャンタという霊薬を見るだけで、どんな病気も治ってしまうという。病気を治すという点では同じであるが、優劣の差は確かにある。声聞と菩薩が人を教え導いて彼岸に渡すのも、これと同じである。苦行と托鉢を行い、夜の間は瞑想に努め、苦を観察して悟りを得るのが声聞の教えである。諸々の現象には人々を束縛する性質がなく、解放する性質もないと観察して、心の清浄を得るのが菩薩の教えである。

マンジュシュリー(文殊菩薩)の前世についての話がある。マンジュシュリーは仏に言った、

「大徳よ、無量阿僧祇劫の昔、私の前世に仏がいた。名を師子音王といった。仏や人々の寿命は十万億那由他(一垓)歳であった。仏は三乗(小乗、辟支仏、大乗)の教えによって人々を彼岸に渡していた。その国は千光といい、その国土に生える樹木は七宝でできていた。それぞれの木は、限りない清浄な教えの音楽、空・無相・無作・不生・不滅・無所有の音を出していた。人々はこれを聞いて教えを理解し、悟りを得た。師子音王仏が初めて教えを説いたとき、九十九億の人が阿羅漢の道を得、菩薩たちもそのようであった。この菩薩たちは、みな無生の理解を得、種々の教えの門に入り、限りない諸々の仏に会って尊敬し供養し、限りなく多くの人々を彼岸に渡し、限りない陀羅尼ダラニ(呪文)を得、限りなく様々な瞑想を習得し、新しく初発心の位に入った菩薩は数えきれないほどであった。この国土を飾る限りない装飾は表現することもできないものだった。

やがて仏は人々の教化を終え、無余涅槃に入り、入滅後六万年がたった。諸々の樹木の教えの音色は、二度と鳴ることはなかった。そのときに、二人の修業中の菩薩がいた。喜根菩薩と勝意菩薩である。喜根法師は見た目が質素・実直で、世間の慣習を捨てず、善悪を区別しなかった。喜根の弟子は聡明であり、教えを楽しんで深い意味を味わった。その師匠は小欲知足を尊ばず、戒行托鉢を尊ばず、ただ諸々の現象の真実のあり方が清浄であることを説き、諸々の弟子に語った、「すべての現象の中にある、淫欲、怒り、愚かさなどの諸々の性質は、すべて真実の性質であって、心を妨げるものではない」と。この方便によって諸々の弟子を教え、諸々の現象の真実のあり方を悟らせた。弟子たちは、人々の中で怒ることなく、後悔することがなかった。心に後悔することがなかったために、生忍(衆生の理解)を得て、生忍を得たために法忍(教えの理解)を得て、真実の教えの中で、動じないこと山のようであった。

一方、勝意法師は戒律を守って清浄であり、十二種の托鉢行を行い、四禅と四無色定を得た。彼の弟子たちは知恵が鈍く、求めることが多く、物事を浄・不浄と分別して、心が定まらなかった。勝意法師はあるとき集落に入り、喜根法師の弟子の家に至って、座に着き、戒律を守ること、小欲知足、托鉢、静かな場所にいること、瞑想の価値を説き、喜根法師を非難して言った、

「この人は教えを説き、人を誤った考えに導く。彼は淫欲・怒り・愚かさが妨げにならないと説く。これは善も悪も区別しない行いであって、純粋な清浄ではない」

この弟子は知恵鋭く、教えの理解があったので、勝意法師に質問した、

「大徳よ。この淫欲とはどんな性質のものか」

「淫欲は欲望という性質のものだ」

「淫欲の欲望はあなたの内にあるのか、外にあるのか」

「淫欲の欲望は内にもなく、外にもない。もし私の内に淫欲があるならば、外に何の対象もない状態でも、淫欲が生じるだろう。もし私の外に淫欲があるならば、それは私には関係ないものだから、私を悩ますこともないだろう」

弟子が言う、

「淫欲の欲望が内にもなく外にもなく、東西南北四維上下より来るのでもなければ、どこにその本性を求めても得られないだろう。したがって、この淫欲は不生不滅であることになるだろう。不生不滅ならば、空であって存在しないということである。どうしてこれが欲望という性質を持ちうるだろうか」

勝意法師はこの言葉を聞き終えたが、心は喜ばず、答えることもできず、座から立って次のように言った、

「喜根法師は多くの人を惑わし、誤った道に導いている」

勝意菩薩はまだ音声の呪文(陀羅尼ダラニ)を学んでいなかったので、仏の説くところを聞いては喜び、外道の言葉を聞いては怒りを抱いていた。この三種の善くない行いを聞いては喜ばず、三種の善い行いを聞いては大いに喜んでいた。生死を聞いては憂いを抱き、涅槃を聞いては喜んでいた。この弟子の家から林の中に至り、寺院に入り、僧たちに語った、

「喜根菩薩は人をたぶらかし、悪と誤りに導いている。なぜなら彼は、淫欲・怒り・愚かさや、すべての現象は妨げることがないと言うから」

このとき、喜根菩薩は次のように考えた、

「この人は大いに怒って、悪い心に覆われてしまっている。きっとこの罪のために悪道に堕ちるだろう。私は彼のために深遠な教えを説こう。今は彼にとっては得ることがないかもしれないが、後の世で仏の道を得るための原因となるだろう」

そして喜根菩薩は僧を集めて、一心に詩を説いた、

『淫欲はすなわち仏の道である。怒りと愚かさも同様である。この三事の中に、限りない仏の道がある。

もし淫欲と怒りと愚かさと、そして道を分別する人がいたならば、この人は仏から遥かに遠ざかっている。たとえば天と地のように。

仏の道と淫欲と怒りと愚かさは、すべて同一であり平等である。これを聞いて怖れを抱く人がいるならば、その人は仏の道から甚だしく遠ざかっている。

淫欲は生じることなく、消滅することなく、心を悩ますことがない。もし人が、自分自身が存在すると思い込んで、淫欲に浸れば、必ず悪道に堕ちるだろう。

有ることと無いことが異なっていると見れば、有無を離れることはできない。もし有無が等しいことを知れば、偏見にとらわれた考えを越えて、仏の道を達成するだろう』

この七十余句の詩を説いたとき、三万の神々の子らは無生の理解を得、一万八千の声聞たちは、すべての現象に執着しないようになり、みな解脱を得た。

このとき、勝意菩薩の身体は地獄に落ち込み、限りない千万年の苦しみを受け、その後人間として生まれ、七十四万の人生において常に謗られ続け、限りなく多くの劫の間に、一度も仏の名前を聞かなかった。やがてこの罪がだんだん薄くなって、仏の教えを聞けるようになり、出家して道のために修行したが、また戒律を破ってしまった。このように六万二千回の人生で、常に戒律を捨てた。また、限りない人生の中で沙門となり、戒律を捨てることはなかったが、知恵は鈍く性質は愚かだった。

この喜根菩薩はいま、東方の、十万億の仏の国土を過ぎたところにある国で、仏となっている。その国土を宝厳と号し、この仏を光踰日明王と号す」

マンジュシュリーが語り終わると、仏は言った、

「マンジュシュリーよ、そのときの勝意菩薩が私である。私はそのとき、限りない苦しみを受けた」

マンジュシュリーは仏に言った、

「三乗の道を求め、諸々の苦しみを受けることを欲しない者は、諸々の現象の性質を否定したり、怒りを抱いてはならない」

仏は答えた、

「私はこの詩を聞くことで、諸々の苦しみを終わらせ、人生ごとに鋭い知恵を得、意味深い教えを理解し、巧みに深い意義を説くことができた。それで、諸々の菩薩の中で最も優れていた」

このようなことを「巧みに諸々の現象の性質を説く」といい、これを「本当に巧みに彼岸に渡す」という。

<第六巻 終>

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