難民の受け入れ

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最近は、難民の受け入れが問題とされることが多い。

日本人は難民に冷たい。移民にもあまり好意的ではないが、難民にはさらに厳しい。なぜかといえば、日本人の目には、難民は逃亡者と見えるからだろう。戦わずに逃げるような人間を助けてやる道理はない、ということである。

不正と戦って死ぬ覚悟がない人間は、人間とはみなされない。そういう風土が日本にはある。そのため難民は、言い方は悪いが卑怯者に分類されてしまう。ゆえに、日本ではあまり尊敬されない。これは太平洋戦争における捕虜の扱いと同じである。

それはある意味ではトリアージに近いかもしれない。人命はたしかに尊いが、すべての命を平等に扱おうとすると資源が足りなくなる。そこで日本人は、命の価値を測ろうとする。その基準はここまでに述べたようなことである。

また日本政府は、できるだけ中東の戦争に巻き込まれたくないと考えている。そして、日本国民の多くもそう感じている。

戦争によって生じた難民を受け入れるということは、その戦争に対する一種の意思表示と取られかねない。少なくとも、それは中立的な行為ではない。そのため、彼らは難民の受け入れを渋る。拒否もしないし、受け入れもしない。判断の保留である。それは政治的には間違いではないが、無責任と言われても仕方がない面もある。

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しかしこの問題に関して、日本人を非難するのはフェアではない。なぜならば、そもそも彼らには、イスラム教徒の言うことが理解できないからである。狂っているとしか思えない。同様に、キリスト教徒の言うことも理解できない。もう勝手にしろとしか言いようがない。

神様の話を始められると、お手上げである。我々は、神様によらないイスラム教徒の意見が聞きたいのである。それができないと、会話の糸口すらつかめない。それはキリスト教徒についても同様である。

日本人には宗教というものが理解できない。それが、ただの迷信とどう違うのかが分からない。欧米人は宗教の存在を前提としてものを考えるところがあるが、それすらも我々には理解できない。ただの迷信をどうしてそこまで尊重する必要があるのか。そうした態度は、我々には精神の異常としか思われない。

たとえば、仏教は合理的ではないと批判する人がいるならば、私にはいくらでもその批判に答える用意がある。しかしイスラム教徒やキリスト教徒は、そもそも批判を受け付けないだろう。それがどうして合理的な態度だと言えるのか。様々な批判によって検証されることではじめて、合理性というものが証明されうるのではないか。

どうしてコーランが神の言葉だと言えるのか。ムハンマドが嘘をついていなかったことを、どうすれば証明できるのか。それが証明できないのに、どうして我々はそれを信じなければならないのか。

これと同じ批判は、聖書に対しても当てはまる。自分の主張の正しさを証明する努力を怠る人間には、自分の主張を受け入れない相手を非難する資格はない。

我々は対話を望んでいる。まず、対話を始める意志があることを示してほしい。

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