現代語訳大智度論 第一巻(上)

はじめに

仏教学の世界では、サンスクリットやチベット語の文献研究が盛んで、それらの日本語訳はたくさん発表されている。一方で、漢文でしか残されていない仏典に関しては、ほとんど翻訳がないのが実情である。

もちろん国訳といわれるものはあるが、それらは基本的に漢文調の文章である。読み慣れた人には味わい深くてよいものだが、普通の人には読みにくくて仕方がない。そこで、読みやすい現代語で漢訳仏典を翻訳するということにも、仏教の布教という点から言うと、それなりに意味があるのではないか。


龍樹菩薩が著したとされる大智度論は、日本・中国・朝鮮の仏教界に量り知れない影響を与えてきた仏典であるが、まだ読みやすい現代語訳が存在しない。私は僭越ながら、その翻訳に挑戦してみようと思う。

もとより自分の勉強のためという理由もあるので、あまり正確な翻訳は期待しないでほしい。また、原文の表現を尊重すると、どうしても漢文調の文章になってしまうので、できるだけ原文の表現を離れるように注意した。

この塩梅がかなり難しく、余計な部分は省略し、足りない部分は足すなどして、かなり自由に翻訳を行った。用語の選択などは全く統一していないので、翻訳としての価値はないかもしれない。ただ、この書は非常に長大であるため、一つ一つの訳語にこだわることに、大して意味があるとも思えない。なんとなく意味がつかめてもらえればそれでよいし、正確な表現が知りたくなれば、原文にあたってもらえばよい。幸い今は漢文の知識さえあれば、仏典を読むことは簡単にできるようになっている。一種の入門篇として使っていただければ幸いである。


本音を言うと、大智度論を漢文で読んだ人にこそ、この翻訳を読んでもらいたい。私の仏教に対する理解が正しいものかどうか、それとも異端と言われるかどうか、確認していただきたい。

私自身はまだこの書を十三巻くらいまでしか読んでいないが(全部で百巻ある)、その中で興味深い部分から翻訳を始めた。第一巻はあまりに有名なので、ここを外すことはできない。第六巻は空の比喩を解説した部分で、空に関する分かりやすい説明になっており、哲学的にも面白い箇所だと思う。第十一、十二巻は布施波羅蜜を解説した部分で、ここも非常に有名である。この部分は私自身の信仰にとっても重要な意味があるので、気合を入れて訳したつもりである。

本文

大智度論序品中縁起釋論第一

 仏は般若波羅蜜の大道を行き、
 仏は般若波羅蜜の大海を極め、
 仏は般若波羅蜜の意味を明らかにする。
 私は般若波羅蜜の無等仏に深く礼拝する。

 有無の偏見を滅ぼし尽くし、
 諸法実相を仏は説く。
 常住不壊にして煩悩を清めるものである、
 仏の尊ぶ法に深く礼拝する。

 大海の雫の数の聖者が徳を行い、
 いまだ修行の途上の人も、すでに道を究めた人も、
 これを美しく飾り立てる。
 輪廻の原因となる煩悩の種は永遠に尽きた。
 これは自分のものだと思う心もなく、
 不善の根はすでに除かれた。

 世間のあらゆる仕事を捨て、種々の功徳を獲得し、
 あらゆる生き物の中で最上の者となった、
 まことに清らかで徳のある出家者に深く礼拝する。
 一念のうちに三宝と、世を救う弥勒
 智慧第一の舎利弗しゃりほつ、口論なく空を実践する須菩提しゅぼだいを尊敬する。

 私はいま力の限り、大智の彼岸と実相の意味を説こうと思う。
 願わくは諸々の大徳、聖者、知恵者の方々、
 一心に私の説くところを聞きなさい。

問 1

仏はなぜ、摩訶般若波羅蜜経を説くのか。

仏は理由なく、あるいは些細な理由から発言することはない。例えば須弥山しゅみせんが理由なく、あるいは些細な理由から動くことがないのと同じである。

問 2

今はどんな理由があって、摩訶般若波羅蜜経を説くのか。

仏は三蔵経(小乗仏教のお経)の中で、色々なたとえを引いて出家者のために説法したが、菩薩の道は説かなかった。ただ中阿含本末経のなかで、弥勒菩薩に対して、「汝は来世において仏となり、弥勒と名乗るだろう」という予言をしただけである。また、菩薩の修行についても説かなかった。そこで仏は今、弥勒などに菩薩の修行を教えようと思い、摩訶般若波羅蜜経を説き明かす。

また次に、念仏三昧(仏の姿を念じる瞑想)の修行をする菩薩がいる。仏は、彼らがその瞑想にますます打ち込むように般若波羅蜜経を説く。般若波羅蜜の初品に次のように説いている。仏は神通を現して金色の光を放ち、その光で十方のガンジス川の砂の数ほどある世界を遍く照らし、巨大な姿を現し、清らかな光や美しい色を空中に満たした。仏を人々の中で比べると、端正で麗しいことは及ぶものがなく、たとえば須弥山が大海の中から突き出しているようである。菩薩たちはこの神変を見て、念仏三昧にますます力が入ったという。このために、摩訶般若波羅蜜を説き明かす。

また次に、釈迦が初めて生まれたとき、光を十方に放ち、七歩歩いて四方を観察し、獅子のように吠え、次のように言った。

『私はもう母体に宿ることはない。これが最後の体である。私はすでに解脱を得た。さあ、人々を涅槃に渡そう』

このように誓いを立てた。やがて大きくなると親族を捨て、出家して道を修めようと考えた。夜中に起きだして妓女や采女や妃を見ると、その姿は屍のようであった。すぐにチャンダカに命じて白馬に鞍をつけさせ、夜半に城を越えて、十二由旬ゆじゅん(距離の単位。一由旬は約7km)進んだ。バガバ仙人の住む林に至り、刀で髪を剃り、上等な衣装を粗末な僧伽梨そうぎゃり(出家者の着る服)に替え、ナイランジャラ川のほとりで六年間苦行し、日に一粒の麻の実や一粒の米などを食べた。ひとり呟くには、「これは本当の道ではない」と。その時に釈迦は苦行を止めた。菩提樹の下に至り金剛処に座ると、魔王が十八億万の軍勢を引き連れて来て、釈迦の修行を妨げようとした。釈迦は知恵と功徳の力があったので、魔王とその軍勢を降すことができた。すると、すぐに悟りを得た。このとき三千大千世界の主の梵天王、名はシキンと、色界の神々、インドラ神、欲界の神々、並びに四天王がみな仏の前に現れて、世尊に初めて法を説くようにお願いした。これは釈迦がもとより願っていたことでもあり、また憐れみと慈しみの心から、請いを受けて法を説いた。様々な教えのうちで最も意味深いのは般若波羅蜜である。ゆえに仏は摩訶般若波羅蜜経を説いた。

また次に、ある人は、仏が一切智を得ていないのではないかと疑う。なぜかといえば、事物は無数にあるのに、どうして一人の人間がすべてのことを知ることができるのだろうか。仏は般若波羅蜜の清らかな本性に落ち着いていて、虚空のようである。量り知れない般若波羅蜜の法の中で、自ら誓いを立てて言う、「私は一切智人である。あらゆる衆生の疑いを断とう」と。このために仏は摩訶般若波羅蜜経を説く。

また次に、衆生の中に悟りを開こうとしている者がいるとしよう。しかし、仏の功徳や知恵が無量であることは知りがたいことであるから、その人は仏を信じることができずに、悪人に惑わされ、心が邪法に沈み、正しい道に入ることができなくなってしまうかもしれない。そのような人のために慈しみの心を起こし、大悲の手をもって教えを授け、仏の道に入らせる。このために最も麗しい功徳を現し、神通力を示す。般若波羅蜜の初品には次のように説かれている。仏は三昧王ざんまいおう三昧ざんまい(もっとも優れた瞑想)に入り、瞑想から立ち上がり、天眼てんげん(人の運命を見通す神通力)によって十方世界を見渡すと、体中の毛穴は笑い出し、足の裏の千輻輪せんぶくりんの相(仏の足の裏には、千のスポークを持つ車輪の文様がある)からは六百千万億の様々な色の光を放ち、足の指先から肉髻にくけい(仏の頭頂部の出っ張り)に至るまで、体の各部分が六百千万億の様々な色の光を放ち、十方の無数の仏の世界を照らし出した。仏は瞑想から立ち上がって、万物の本来の姿を示し、あらゆる衆生の疑いを断とうとして、般若波羅蜜を説いた。

また次に、邪悪な人がいて、嫉妬を抱いて誹謗して言う、「仏の知恵は人より優れているわけではない。ただ幻術をもって世間を惑わしているだけだ」と。そのような高慢で邪悪な心を断ち切るために、無量の神通力と知恵を現すのである。般若波羅蜜の中で自ら説いている、「私は神のように無量の徳があり、三界欲界色界無色界)のなかでも優れた尊者である。そのために一切のものに守られている。もし一度でも悪念を起こせば、罪は無量である。一度浄心を起こせば、人の世と天上の楽しみを受けることができ、必ず涅槃に至るであろう」と。

また次に、人に法を信じさせるために言う、「私は偉大な師匠である。十力じゅうりき四無所畏しむしょい(どちらも仏の優れた能力のこと)があり、聖なる主の住処に落ち着き、心は自在であり、獅子のように吠えて優れた教えを説くことができる。一切の世界において最も尊く、最上の存在である」と。

また次に、仏世尊は人々を喜ばせようとして、この般若波羅蜜経を説いて言う、「あなた方は大いに喜びなさい。なぜなら、あらゆる衆生は邪見の網に入り込み、誤った教え、悪い師匠のために惑わされているが、私はすべての誤った教えから抜け出している。このような十力を持つ師匠には出会い難いものであるが、あなたは既に会っている。私は時に応じて三十七ほん(修行者が実践すべき三十七の項目)などの様々な深い教えを明らかにするので、あなたはその中から欲しいものを取りなさい」と。

また次に、「あらゆる衆生は煩悩の病によって苦しめられ、始まりのない生と死の繰り返しの中で、その病を癒すことができず、誤った教えに導かれて道に迷い続けている。私は世に出て大医王となり、あらゆる教えの薬を集めてきた。あなたがたはこの薬を飲みなさい」と。このために仏は摩訶般若波羅蜜を説くのである。

また次に、ある人が言うには、「仏には人と同じく生死がある。飢えや渇き、寒さや熱さ、老い、病、苦しみも受けている」と。仏はこの人の考えを断つために摩訶般若波羅蜜を説く、「私の体は不可思議である。梵天王などの神々の祖父が、ガンジス川の砂の数ほどののなかで、私の体を量ろうとし、私の声の在りかを探そうとしたが、測り知ることができなかった。まして私の知恵の瞑想については言うまでもない」と。詩は次のように語る、

『諸法実相の中で、梵天王等の一切の天地の主は、迷いに沈み悟ることができない。この教えは意味深いものであって、かつて知ることができた者はいない。

そこに仏が現れて、その意味をことごとく明らかにされた。まるで太陽が照らし出すように』。

また、仏が初めて教えを説いたときは次のようであった。どこかから菩薩がやってきて、仏の体の大きさを量ろうと考えた。上方に進み無数の仏の国を過ぎて華上けじょう世界に至ったが、仏の体は元と同じように見えた。そこで菩薩は言った、

『虚空には限りがない。仏の功徳もまた同じである。たとえその体を量ろうとしても量りつくすことはできず、無駄な努力に終わるだろう。

上方に進み、虚空の世界、無数の仏の世界を過ぎても、釈迦の姿が見えなくなることはなかった。仏は元通りの姿でそこにあった。

仏の体は金の山のようであり、大いなる光を放ち、自らの体を美しく飾り、それは春の花が散り敷かれたようであった』。

仏身に限りがないように、仏の放つ光や音声もまた限りがない。戒定慧かいじょうえ(戒律を守ること、瞑想を行うこと、知恵の三徳)などの功徳もすべて限りがない。以上のことは、『密迹経みっしゃくきょう』のなかの三密の部分で詳しく説明されている。

また次に、仏が生まれたとき、地に落ちてから七歩歩いた。自分で言葉を発し、言い終わると黙ってしまった。普通の幼児が歩かず、言葉を発しないように。仏は哺乳され三歳になり、母に養われ次第に大きくなった。実際には仏身は無数であり、世間の常識を超えているが、人びとのために普通の人として姿を現したのだ。普通の人が生まれるとき、肉体や能力、意識が未熟であるために、歩く、立ち止まる、座る、横になるといった動作の作法や、様々な人間界の道理を全くわきまえていない。月日が経つうちにだんだん人間の世界のしきたりを学んでいく。今、仏はどうして生まれてすぐに歩き語って見せ、そのあとそれを止めてしまったのか。これをよく考えなさい。

ただ人々に仏の教えを信じさせるために、方便の力によって、話したり歩いたりして見せたのだ。もし菩薩が生まれてすぐに歩き、話すことができたなら、人々は次のように考えるだろう、「このような人はいまだかつて見たことがない。天竜・鬼神の仕業に違いない。彼の深い教えは、我々の理解を越えているだろう。私たちの肉体は煩悩のために生死に縛り付けられ、自由にならないのに、どうしてそのような深い教えを理解することができるだろうか」。このように自分から諦めてしまって、賢者の教えを受け入れることができない。このような人のために、ルンビニーで生まれ、菩提樹の下で悟りを開いたが、方便の力によって子供や少年、大人の姿となり、次第に遊びを覚え、学芸を学び、服を身に着け馬車に乗り、欲望の対象を楽しむようになった。

それからしだいに老いと病と死の苦しみを見るにつけ、世間を厭う心が生じ、夜半に城を抜け出て出家した。ウッダカ仙人とラーマプッタ仙人のところに至り、弟子となったが、彼らの教えには従わなかった。神通力によって、自分が過去の生において、カーシャパ仏のもとで戒律を守り修行に励んだことを知っていたが、今、更に六年の苦行を行い、道を求めた。釈迦は既に三千大千世界の主であったが、今は魔の軍勢を破り無上の道を完成させた。世間の人々を納得させるために、これらの事業を行って見せたのだ。今、般若波羅蜜の中で、大神通力や智慧力を現しているのを見て、人々は知るがよい、仏の身体は常識では量れないことを。

また次に、有無の極端(永遠の魂が存在するという考えと、死後にはなにも存在しなくなるという考え)を信じるためか、あるいは無知のために、自身の快楽を求めたり、物質を求めたりする人がいるとしよう。これらの人はそのために苦行を行い、涅槃の真実を失う。このように有無の極端を信じる人を中道(仏の教え)に導くために、仏は摩訶般若波羅蜜経を説く。

また次に、生身の体と法身ほっしんと供養と果報の違いを明らかにするために、摩訶般若波羅蜜経を説く。これは『舎利塔しゃりとうほん』で説かれている。

また次に、阿鞞跋致あびばっちと阿鞞跋致の性質を説明するために、また魔幻と魔事のために、また来世において般若波羅蜜を供養する因縁ある人のために、また三乗(菩薩、縁覚えんがく声聞しょうもんの三種の聖者)になるという予言を修行者に与えるために、般若波羅蜜経を説く。仏はアーナンダに次のように告げた、「私が涅槃に入った後、この般若波羅蜜は南方に至り、南方から西方に至り、五百年の後に北方に至るであろう。その地に、教えを信じる多くの善男子ぜんなんし善女人ぜんにょにんがいるだろう。彼らは様々な花の香りや、宝石をあしらったアクセサリーや、旗飾りや、歌や踊り、ともしびや、珍しい宝物や、財産によって供養を行い、あるいは自ら経を書き写し、人に書き写させ、あるいは経を読み上げたり、人が読み上げるのを聞いたり、暗記したりして修行に励み、法によって供養を行うだろう。これらの人はこの因縁によって様々な世間の楽しみを受け、死後には三乗を得て無余むよ涅槃ねはん(煩悩と肉体のすべてが滅した安らぎの境地)に入るだろう」。これらの因縁を知っているから、般若波羅蜜経を説くのだ。

また次に、仏は第一義だいいちぎ悉檀しっだんの性質を説明するために般若波羅蜜を説く。四種の悉檀がある(悉檀とは論拠や説明のことで、我々が仏の教えを信じる根拠となるもの)。一つ目は世界悉檀、二つ目は各各為人かくかくいにん悉檀、三つ目は対治悉檀、四つ目は第一義悉檀である。四つの悉檀は一切十二部経と八万四千の法蔵をその中に含んでいる。これらはすべて真実であって、お互いに矛盾することなく、仏の教えの中で説かれている。世界悉檀のゆえに実有であり、各各為人悉檀のゆえに実有であり、対治悉檀のゆえに実有であり、第一義悉檀のゆえに実有である。

なぜ世界悉檀というのだろうか。この世界の事象はすべて因縁が寄り集まることで存在しているのであって、他に存在する原因があるわけではない。たとえば馬車は、轅(馬をつなぐ部分)や車軸や車輪などが寄り集まることで存在していて、それらの部品とは別に車があるのではない。人もまた同じである。五つの要素が集まることで存在していて、それらの要素とは別に人があるのではない。これが世界悉檀である。

問 3

仏は、「私は清らかな天眼で人々を見渡し、善悪の行いに従ってここで死に、あそこで生れ、その果報を受けるのを見る。善い行いをした者は神々や人間の世界に生まれ、悪い行いをした者は三悪道(畜生、餓鬼、地獄の世界)に堕ちるのを見る」と言っている。また次に、「一人が出家すれば多くの者が幸福を受け、ますます栄える。これが仏世尊である」と言っている。『発句ほっく経』の中では、「精神的な力は自らを救うことができる。他人がどうして私の精神を救うことができるだろうか。自ら善を行う知恵のはたらきは、最もよく自分自身を救う」と説いている。『瓶沙王迎びょうしゃおうごう』では、仏は、「凡人は教えを聞かない。凡人は自我に愛着する」と説いている。また、『二夜経』のなかでは、「仏が初めて悟りを開いた夜から、涅槃に入った夜まで、この二夜の間に説いた教えはすべて真実であり、誤りはない」と説いている。もし、実際には人というものが存在しないのだとすれば、仏はどうして「私は天眼によって人々を見る」と言ったのだろうか。

世界悉檀においては、人は存在すると言える。しかし、第一義悉檀においてはそうではない。

問 4

第一義悉檀は真実であるがゆえに、第一義というのではないか。だとすれば、他の悉檀は真実ではないのか。

そうではない。四悉檀はそれぞれ真実である。実相法性実際は世界悉檀においては存在しないと言われるが、第一義悉檀においては存在すると言われる。人もこれと同じである。世界悉檀においては存在すると言われ、第一義悉檀においては存在しないと言われる。何故であろうか。

人は五種類の要素が集まることで人となる。たとえば、牛乳について考えてみよう。牛乳は色や香りや味や感触の集合体として存在している。もしここに牛乳が存在しなければ、牛乳の色や香りや味や感触は存在しないだろう。いま、それらの牛乳の諸要素があるから、ここに牛乳が存在している。ここで、牛乳が存在する・しないという意味は、たとえば一人の人に二つ目の頭や三つ目の手が存在しない、ということとは違う。その場合は架空の存在に名前を与えているだけである。こういったことを、世界悉檀による説明という。

では、各各為人悉檀とは何であろうか。人の心や行いに合わせて教えを説くが、そのなかで聴いているところもあり、聴いていないところもある。経の中に説くように、善悪の行いのために、人間界や地獄などの世界に生まれ、それぞれの対象から苦しみや楽しみを受ける。

問 5

しかし、『破群邪はぐんじゃ経』では、「人は対象と接触することもなく、苦楽を感じることもない」と説かれている。これらの経の内容は、どうして矛盾していないと言えるのか。

来世の存在を疑い、善悪の行いに、それぞれ幸福と不幸の報いがあることを信じず、善くない行いをしても、自分が死んだら何も無くなるから構わない、と考えている人がいる。彼の疑いを除き、悪い行いを止めさせ、死後は虚無であるという誤った考えを捨てさせようとして、善悪の行いの報いとして、人間界や地獄に生まれ、そこで楽しみや苦しみを受ける、と説く。

修行者パッグナは、自我が存在し、魂が存在すると考え、常見(永遠のものが存在するという誤った考え)を抱いている。パッグナは仏に問う、「大いなる幸福を誰が受けるのか」と。もし仏が、それは誰それが受ける、と言えば、それを聞いた人は常見を抱き、自我の存在を固く信じてしまうかもしれない。これを危惧して、苦楽を感じる人がいる、とは説かない。このような種類の教えを、各各為人悉檀という。

対治悉檀とは何か。その時に必要なことを教えるが、他の時には正しいとは限らないような教えである。たとえば、重く、熱く、脂っぽく、酸っぱく、塩辛い薬草や食事は、風の病には薬であるが、他の病には薬ではない。軽く、冷たく、甘く、苦く、渋い薬草や食事は、熱病には薬であるが、他の病には薬ではない。軽く、辛く、苦く、渋く、熱い薬草や食事は、冷病には薬であるが、他の病には薬ではない。仏法において、心の病を治すのもこれと同じである。

一、不浄観(腐乱死体や白骨を思い浮かべる瞑想)は、貪欲の病にとっては良い治療法であるが、怒りの病にはふさわしくない。何故だろうか。自身の過失を見ることを不浄観という。怒りを持つ人が過失を見れば、怒りの火が大きくなるだけである。二、慈しみの心を持つことが、怒りの病にとっては良い治療法である。しかし、これは貪欲の病にとっては良い治療法ではない。なぜなら、慈しみの心は人々の中に美点を見つけるが、貪欲の人が美点を見つけてしまうと貪欲が強くなってしまうからである。三、因縁(物事の原因)の教えを観察することは、愚かさの病にとっては良い治療法であるが、貪欲と怒りの病にはふさわしくない。なぜなら、正しいものの見方が出来ないために、愚かさが生じるからである。

問 6

仏は、因縁がとても意味深い教えであると説いている。仏はアーナンダに、因縁の教えは意味深く、理解しがたく悟りがたいもので、注意深く知恵の優れた人だけが理解できると言っている。愚かな人は、身近な道理ですら理解できないというのに、どうして意味深い因縁の教えを理解できるだろうか。それなのになぜ、愚かな人は因縁の教えを観察すべきだというのか。

愚かな人とは、牛や羊のような愚かさを言うのではない。真実の道を求めるけれども、誤った観察をしているために、誤った考えに陥ってしまう人である。こういった人は、因縁を観察するべきだ。この場合には、それが良い治療法である。一方で、怒りや貪欲によって行動する人は、快楽を求め、人を苦しめようとする。このような人にとっては、因縁による治療はふさわしくない。これらの人には不浄観と慈しみの心が良い治療法である。なぜなら、これらの治療法は怒りと貪欲の毒針を抜くことができるから。

また次に、真実に反して永遠の存在を信じる人々は、諸々の事象が互いに似ていて相次いで生じることに気づいていない。このような人が無常を観察することは対治悉檀であって、第一義悉檀ではない。なぜかといえば、あらゆる事象は本質的に空だから。偈に言う、

『無常なものを永遠のものと考える、これを誤った考えという。空の中には無常はない。どこに永遠なるものがあるだろうか』。

問 7

すべての現象は本質的に無常である。これが究極の真理である。どうして無常が真実でないというのか。すべての現象には生成、持続、消滅の三つの過程がある。初めに生成し、次に持続し、最後に消滅する。これが真実ではないか。

どんな現象にもその三種の過程はない。三種の過程は真実の存在ではないから。もしあらゆる現象に生成、持続、消滅があるとすれば、それらもまた現象であるから、生成のなかにも生成と持続と消滅があるはずである。さらに、生成の生成にも生成と持続と消滅があるだろう。このように無限につづくことになる(ゆえに正しくない)。持続と消滅も同様である。どんな生成と持続と消滅にも、それ自体に生成と持続と消滅がないのだとすれば、それを現象ということはできない。以上のことは、あらゆる現象には本質がないとすれば理解できる。これが、無常が究極の真理ではない理由である。

また次に、もし、すべてのものの本性が無常であるなら、自らの行いの報いを受けることもないだろう。なぜなら、一定の性質を持たないものに生成・消滅があるとは言えないから。たとえば、腐った種子が芽を出さないようなものである。この場合には、どんな行いもあるとは言えない。行いがなければ、どうしてその報いがあるといえるのか。いま、すべての聖なる教えには、その報いがある。善にして知恵ある人が信じていることを、無であるとは言えない。したがって、すべてのものの本性が無常であるとは言えない。これらのような諸々の理由から、すべてのものが無常であるとは言えない。すべての事柄が無常であるなら、苦しみや無我(という聖なる教え)もまた無常であるといわねばならない。この種の教えを対治悉檀という。

第一義悉檀とは何か。すべての真実の性質や議論、行うべきことと行うべきでないこと、これらはそれぞれ否定し、矛盾を指摘することができる。一方、すべての仏や辟支仏、阿羅漢が実践する真実の法は、否定することも矛盾を指摘することもできない。以上のことは、三種の悉檀とは矛盾するが、第一義悉檀とは矛盾しない。

問 8

矛盾しないとはどういうことか。

矛盾がないとは、あらゆる誤りから逃れていることである。その意見を変えることもできず、論破することもできない。なぜなら、第一義悉檀以外のあらゆる議論、あらゆる悉檀はみな論破することができるから。『衆義しゅぎ経』のなかに次の偈がある、

『みな自分の考えにこだわって、口論をはじめる。相手の考えが誤りであると知ることを、正見を知るという。

自分以外の考えを受け入れない人を、愚かな人という。このように口論する人は、本当に愚かだ。

自分の意見にこだわるから、種種の誤った議論が生じる。もしこれを清らかな知恵というなら、清らかな知恵を持たない者はいない』。

この三句の中で、仏は第一義悉檀を説き明かしている。世間の人々は自分の意見や考えにこだわって議論をするから、口げんかになる。誤った議論は口げんかのもとだ。誤った議論は自分の考えにこだわることから生まれる。偈に曰く、

『正しいことと誤ったことを識別する作用があるから議論が生じる。もしその認識がなければ議論をすることがない。このひとには、これが正しいという考えも、これが誤りだという考えも、ことごとく除かれている』。

この道理をよく理解できれば、あらゆる物事、あらゆる議論において、一定の見解にこだわることが無くなる。このように口げんかを止めれば、仏の教えの深い味わいを知ることができる。それができないものは教えをそしり、人の考えを受け入れることができなくなる。これが知恵のない人である。

このように議論する人は皆、知恵がない。なぜなら、こうすると皆がお互いの意見を聞かないようになってしまうから。つまり、ある人は、「この教えが最も正しく、他の人は間違っている」と言う。たとえば、社会を治める法の場合と同じで、法に従えば刑罰や死刑など様々な不浄がつきまとうが、人々はこれを正しいと信じ、この法は清浄であると考えている。しかしこれは、出家者や善人の間では、最も汚らわしいこととされている。外道の出家者は、暑さの中に一本足で立ち続けたり、髪の毛を抜いたりといった苦行を行う。ジャイナ教徒はこのような苦行を深い知恵だとするが、他の人はこのような苦行は愚かな行為だという。このように様々な外道の出家や、在家のバラモンの教えがあり、それぞれが自分こそが正しく、他の人は間違っていると考えている。仏の教えの中でも、犢子とくし派(ある種の魂の存在を仮定する小乗仏教の一派)の僧侶は、四大(地水火風)が集まって眼があるように、五つの要素が集まって人がある、と説く。犢子派の理論書では、「五つの要素は人を離れず、人は五つの要素を離れず、五つの要素が人であるとも、五つの要素は人ではないとも言えない」と説いている。人とは第五不可説法蔵の説である。一切有派(小乗仏教の一派)は言う、「魂はどんな原因や時間や事象のなかにも求めることはできない。兎の角や亀の毛のように」。

また次に、十八界、十二入、五蘊(人間の認識・感受作用とその対象、及び人間を構成する物質・精神的要素の全て)は実在するが、この中に魂はない。仏教徒ではない人は言う、すべての事象は生成せず消滅しない。空である。兎の角や亀の毛が存在しないのと同様である。これらの議論好きは、自分の考えを守り、人の考えを受け入れず、それが誤りだと考える。自分が選んだ教えだけを信じ、尊敬し、修行して、他の教えを信じず、尊敬しないのであれば、それこそが誤りである。もしこれを最も正しいことだと考えれば、正しくないことはなくなる。すべて自分が信じる教えにのっとっているのだから。

問 9

どのような考えにも誤りがあるのだとすれば、第一義悉檀とは何か。

あらゆる言葉を越え、心で行うことがなく、よりどころ無く、対象を指し示さない。物事の本来の姿は、始まりがなく、中間がなく、終わりがなく、尽きることもなく、壊れることもない。これを第一義悉檀という。大乗仏教の心は次の詩に言い表されている、

『言語は尽き、心のはたらきも尽きた。不生不滅の理は涅槃のようである。行いを説くことを世界悉檀といい、行わないことを説くことを第一義悉檀という。

一切は真実である。一切は真実でない。一切は真実であり、かつ真実でない。一切は真実でなく、かつ真実でないのでもない。これを真実の姿という』。

これが様々な経に説かれていることである。この教えは意味深く、理解するのは難しい。仏はこれを説明しようとして、摩訶般若波羅蜜を説き明かす。

また次に、長爪ちょうそう梵志ぼんしなどの弁論家に、仏の教えを信じさせるために摩訶般若波羅蜜を説く。長爪と名乗るバラモンや、ヴァッチャやサッチャカなどのインドの論者たちがいた。彼らは「すべての議論は論破でき、すべての概念は不正確であり、すべての考えは移ろいゆく。故に真実はなく、信ずべきものも尊敬すべきものもない」と主張する。

舎利弗しゃりほつ本末ほんまつ経』によれば、シャーリプトラの叔父のマハーカウスティラは、姉のシャーリーと議論をして勝てなかった。マハーカウスティラは、これは姉の力ではない、と考えた。お腹の子供が母の口を借りて語っているに違いない、と。まだ生まれていないのにこれほどの力があるとすれば、生まれてきたらどれほどのものになるだろうか。このとき彼の心に、姉の子に勝ちたい、というおごりが生じた。

議論の腕を磨くために、出家してバラモンとなった。南インドに入り学問書を読み漁った。ある人が、「何が目的で、何の勉強をしたいのか」と問うと、マハーカウスティラは、「十八種類の学問の全てを知り尽くしたいのだ」と答えた。その人は、「あなたの寿命が尽きても、一つのことを知ることもできない。どうして全てを知り尽くすことができるだろうか」と言った。マハーカウスティラは思った、「むかし己のおごりのために姉に負けた。いままた、これらの人に辱められた」と。

この二つの出来事があって、彼は、十八種の経典を読み尽くすまで爪を切らない、という誓いを立てた。人は彼の長い爪を見て、長爪と呼ぶようになった。彼は様々な経を読んで知恵をつけ、これは事実、これは誤謬、これは正しい、これは誤り、これは真実、これは真実でない、これは有る、これは無い、といった具合に、様々な人の主張を論破していった。まるで狂った像が突進して、だれも止められないかのようであった。このように長爪梵志は、議論の力によってすべての論敵を打ち負かしてしまった。

そこで、マガダ国ラージャグリハのナラ村の故郷に帰り、人に訊いた。「姉が産んだ子はどこにいるのか」と。すると、「あなたの姉の子は八歳の時に、すべての経を読み尽くした。十六の年になると、彼に議論で勝てる人はいなくなった。そして、釈迦族のゴータマという人の弟子となった」という答えが返ってきた。長爪はこれを聞いて驕慢の心を生じ、不信心にも次のように言った、「私の姉の子はそのように聡明であるのに、それをどのように誑かし、頭を剃らせ、弟子にしたのだろうか」と。長爪はすぐに仏のもとへ向かった。

その時、舎利弗はまだ弟子となってから半月で、仏の隣に立って、仏を扇いでいた。長爪梵志は仏に会い、あいさつを交わし、一方に座った。長爪は次のように考えた。「すべての議論は論破でき、すべての概念は不正確であり、すべての考えは移ろいゆく。万物の本性や究極の真理など、たわごとにすぎない。物事の本質や様相や真実などありはしない」と。彼がこのように考えることは、大海の中に入って、その底を究めようとするようであった。しかしこのように求めても、彼の心には一つの教えも入ってこなかった。

長爪は、「彼はどのような議論によって、姉の子を得たのか」と考え、仏に語りかけた、「ゴータマよ、わたしはどのような主張も受け入れない」と。そこで、仏は長爪に問いかけた、「ではあなたは、どのような主張も受けない、というその主張を受け入れるのか」と。仏の問いは次のような意味である。あなたは既に誤った考えという毒を飲んでしまっている。しかし、今その毒を吐き出して、どのような主張も受けない、と言った。その考えを受け入れるのか、と。

そのとき、振り上げられた鞭を見て、賢い馬がすぐに正しい道に戻るように、長爪梵志の心にも、仏の言葉という鞭が映った。彼は尊大な態度を捨て、恥じ入ってひれ伏し、次のように考えた、「仏は私をジレンマに追い込んだ。もし私が、自分の主張を受け入れると言えば、この誤りは明らかなので、多くの人が私の負けを悟るだろう。前にはどんな主張も受け入れないと言ったのに、それを自分で否定することになるのだから。しかしもう一つの答えは、その間違いが分かりづらいので、多くの人は私が負けたことに気づかないだろう」と。このように考えて、仏に答えた、「ゴータマよ、私はどんな主張も受け入れない。私自身の主張も」と。仏は言った、「あなたがどんな主張も受け入れず、自分の主張も受け入れないならば、何の主張も持たない普通の人と変わらないだろう。どうしてそんなに思い上がっているのか」と。長爪梵志は答えることができず、自分が完全に敗北したことを知った。

すると、仏の智慧と対峙する中で、彼の中に尊敬と信心が芽生えてきた。彼は次のように考えた、「私は敗北した。しかし、仏は私の負けを明らかにせず、是非を言わず、私が仕掛けた論争を意に介さなかった。仏の心は柔軟で、最も清らかで、どんな議論も寄せ付けない。私は意味深い教えを得た。それは尊敬すべきもので、最も清らかなものである。仏の教えは誤った考えを取り除き、仏のいる場所は塵一つなく、様々な教えの中で、清らかさに輝いている」と。

シャーリプトラはこの問答を聞いて阿羅漢あらかん(小乗の聖者)となった。長爪梵志は出家して仏弟子となり、のちに優れた阿羅漢となった。もし長爪梵志が般若波羅蜜(知恵の完成)を聞かず、四句と第一義相応を離れていれば、わずかな信心を起こすことすらできなかっただろう。まして出家して悟りを得ることはできなかったに違いない。仏は、このような知恵の優れた弁論家たちを導くために般若波羅蜜経を説く。

また次に、仏には二種類の説法がある。一つは、その人の心に応じて、理解しやすい教えを説くことで、もう一つは、様々な事象の性質を明らかにする教えである。今、仏はものごとの真実の性質を明らかにするために、摩訶般若波羅蜜を説く。

相不相そうふそうほん』は次のように説く。神々が仏に問う。「般若波羅蜜は意味深い教えであると聞く。どのような教えなのか」と。仏は答える。「一言でいえば空である。特徴がなく、計らいがなく、生じることも滅びることもなく、行いも無く、永遠の真実であり、安らぎの境地である」と。

また次に、二種の説法がある。一つ目は議論によるもの、二つ目は議論によらないものである。議論による教えはほかの経で説かれているので、今は議論によらない教えを明らかにしようとして、般若波羅蜜経を説く。特徴があるもの、特徴がないもの、存在するもの、存在しないもの、よりどころがあるもの、よりどころがないもの、対象があるもの、対象がないもの、最も優れたもの、最も優れてはいないもの、世界と非世界などについて。

問 10

仏は大いなる慈悲の心を持っているのだから、議論によらない教えだけを説けばよいのではないか。どうして議論によって教えを説くことがあるのか。

議論によらない教えは特徴がなく、永遠の安らぎであって、説明することができない。今、布施や無常、苦しみ、空などを、すべて平穏で、議論を離れたものだと説けば、知恵の優れたものは仏の言葉を理解し、議論を始めることはないだろう。しかし、知恵の鈍いものは仏の心を推し量ることができず、そこに特徴を見つけ出し、心にとどめ、議論を始めるだろう。この般若波羅蜜とは、あらゆるものが究極的には空であるために、議論すべき事柄は存在しないという教えである。もし、究極的な空が、認識できるものであり、議論の対象となりうるものであるならば、究極的な空とは言わない。有無の二つの意見が共に意味を持たなくなる境地だから、般若波羅蜜経を議論によらない教えというのである。

また次に、ほかの多くの経では、ぜんもん不善ふぜんもん無記むきもんという、三種の門を説いている。今は、非善門、非不善門、非無記門を説くために、摩訶般若波羅蜜を説く。学法、無学法、非学、非無学法、見諦断けんたいだん法、思惟断しゆいだん法、無断むだん法、可見有対かけんうたい不可見有対ふかけんうたい不可見無対ふかけんむたい、上中下法、小大無量法などの三種の法門についても同様である。

また次に、他の経では、声聞の教えに従って、四念処しねんじょ(心念処、受念処、身念処、法念処)を説いている。これによって、修行者は体の中の三十六の不浄物を観察し、貪欲の病を除く。このように身体の内外を観察する。今は、異なる見方によって、四念所に関して般若波羅蜜を説こうとしている。経によれば、菩薩は身体の内部を観察し、身体について覚観かくかん尋伺じんし、観念と認識)が生じなければ、身体があるとは思わない、なぜなら、そのとき身体があると考える理由がないから。同じように身体の内外を観察し、身体について覚観が生じなければ、身体があるとは思わない、なぜなら、そのとき身体があると考える理由がないから。身念処のなかで、身体を観察しながら覚観を生じないようにすることは、非常に難しい。他の三念処についても同様である。また、四正勤ししょうごん四如意足しにょいそく四禅しぜん四諦したい等の種種の四法門も同様である。

また次に、ほかの経では仏は五蘊ごうんが無常、苦、空、無我であると説いている。今はこの五蘊について、異なった見方から教えを説くために、般若波羅蜜経を説く。

仏がスブーティに告げたように、菩薩は、しき常行じょうぎょうだと観察すれば、般若波羅蜜の修業を行わない。また、受想行識じゅそうぎょうしきが常行だと観察したときも、般若波羅蜜を行わない。色が無常行むじょうぎょうだと観察したときも、般若波羅蜜を行わない。受想行識が無常行だと観察したときも、般若波羅蜜を行わない。五受衆ごじゅしゅ、五道等の五法門も同様である。

残りの六、七、八から無数の法門も同様である。摩訶般若波羅蜜が無量無辺であるように、般若波羅蜜を説く因縁もまた無量無辺である。このことは説き尽くせないほどなので、今は省略して摩訶般若波羅蜜の因縁を説き終わる。

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