年をとると、身体が動かなくなる。私は先日40歳をむかえ、もう初老である。夜は熟睡できず、朝は身体が痛む。若いころには普通にできていたことも、近ごろは苦労を感じるようになった。
年をとると仕事ができなくなる。一番仕事ができるのは20代、30代の若いころで、年齢を重ねるほど生産性は下がる。それに反して、給料の額は高くなる。それは、若い人の稼いだ分を、おすそわけしてもらっているのである。いい歳をして、自分ひとりで生きているように勘違いしている人もいるが、そんなことはない。人に助けられていることに気づいていないだけだ。
老人は、若者に支えてもらわなければ生きられない。だから子供が必要なのだ。元気なころに子供を作っておけば、年をとってから子供に面倒を見てもらえる。それが人間のライフサイクルである。これは現代社会においても同じで、若い人が支払う社会保障費によって、高齢者は生活している。ゆえに、若者の数が減れば、老人の生活は厳しくなる。
財務省は老後の生活資金として2000万円必要だというし、国民年金もいつ破綻するかわからない。こういう社会だから、老後の生活に不安を感じる人は多い。だがそれは、子供を作らなかった報いなのである。若者の数が老人と同じくらい多ければ、年金が破綻する心配はない。若者がせっせと稼いでくれれば、老人は楽に生きていけるのだ。
人間は年をとると受けとる側に回るのだから、若いときには与える側にならなければならない。若いころに社会貢献していれば、年をとってからも安心して生きられる。とくに子供を育てるということが、一番の社会貢献である。
若者は若いというだけで楽しいのだから、高い給料をやる必要はない。貧乏生活をさせておけばいいのだ。しかし、中年になると子供が生まれ、養わなければならない親類縁者が増える。また、体にガタがきて医療費が必要になる。そのときに、ちゃんとお金を出してやればいい。仕事の成果に対する報酬として給料を払うのではなく、その人の社会的地位にあわせて給料の額を決める。そうしないと、人間社会は回らない。
成果主義を徹底するならば、若い人ほど多くの給料をもらって、年齢の高い人ほど少ない給料をもらうことになる。だが、必要とするお金の量は逆である。年をとるほど金がかかる。ゆえに、成果主義を続けていけば、社会は立ち行かなくなる。
給料は仕事に対する報酬ではない。社会を回すために必要な資源である。その資源の配分は、全体の様子を見て決めなければならない。人のことを考えられるようになって、はじめて一人前の大人といえる。給料を渡す人も受けとる人も、社会に対する責任を自覚するべきである。
このように考えると、現代社会の問題点が、その無責任さにあることがわかる。自分が子供を作らなくても、ほかの人が子供を作っていれば、その恩恵を受けることができる。若者が養うのは自分の親だけではなく、すべての高齢者であるから、子供を産まなかった高齢者も、等しく社会保障の対象となる。これでは子供を産んだことへの恩恵が少なすぎる。
この社会では、平等を建前にした無責任が横行している。がんばっている人が報われない社会というのは、ほんとうにいやなものだ。