刑法学には、刑法の存在理由に関して、大きく二つの派閥がある。
ひとつは目的刑論である。刑罰は、将来における犯罪予防を存在理由とする。罪を犯した人間が、必ず罰を受けることを明らかにすることで、国民に法律を守るよう心理的強制を加え、犯罪から遠ざけようとする。
ふたつめは応報刑論である。刑罰は、犯罪に対する非難として加えられる。犯罪という違法行為に対する仕返しとして、刑罰という国家的制裁が加えられる。
現代の刑法学はこの二つの見解の間で揺れ動き、これらを統合しようと努力しているようである。しかし両説はどちらも不十分であり、認識論の観点が欠けている。そもそも罪とは何か、悪とは何か、という刑罰の本質を問うことを避けた形式的な議論である。
我々は、罰を通して罪を認識する。罰を与えられることによってはじめて、それが悪いことであった、ということを認識することができるのである。
たとえば、いじめをする者には、罪の意識がないのだという。誰にも構ってもらえない人間を、俺が構ってやっているのだ、だから俺に感謝すべきだ、と考えている。つまり彼らには、悪いことをしているという自覚がなく、むしろ、いいことをしていると感じている場合すらあるのである。
そもそも、罪を認識すること自体が、非常に難しいことだということを理解しなければならない。優れた知性を持つ人間でなければ、自分が罪を犯していることに気づくことはできない。しかし、そうでない人間に対しても、その罪を理解させることはできる。それが刑罰の役割である。
我々は、結果から原因を知ることができる。今日お腹が痛くなったら、昨日かびたパンを食べたことが原因だとわかるのである。結果が現れることによって、原因に思い至ることができる。罪と罰もこれと同じである。この場合は、自分自身が罰を受けずとも、他人が罰を受けるところを目撃するだけで、罪に対する認識が生まれる。
だからこそ、刑罰は明白なものでなければならない。江戸時代の刑罰に市中引き回しの刑があったのは、その人が罪を犯したということを市民に周知させるためであった。それが犯罪の予防にもなり、同時に非難にもなる。罪と罰との対応関係を明らかにすることが、刑罰の目的だといえる。
この観点からすると、応報刑論の重要性は量刑の概念にある。犯した罪の重さに応じた罰を与えることによって、犯罪という事実に輪郭を与え、それが現実に存在することを明らかにすることができる。そのように、罪に対する明確な認識を与えることが刑法の目的である。このように考えれば、目的刑論も応報刑論も、認識刑論の一部であることがわかる。
認識刑論は法治主義を超えたものである。この立場は、法律によって規定される以前に、客観的対象として犯罪が存在することを前提とするので、ここでいう犯罪は、法律の枠に縛られないことになるからである。
わるいことをしてはいけない、ということはあたりまえのことであり、ここに疑問をさしはさむ余地はない。問題は、わるいこととは何か、ということである。
民主主義者は、奇妙なことに、これを自分たちで決めることができると考えている。日本国憲法の採用する罪刑法定主義によれば、裁判所は、法律に定められていない犯罪を処罰してはならない。なぜかというと、裁判官は選挙で選ばれたわけではないからである。一方で法律は、選挙で選ばれた国会議員が制定するものであり、そこには民意が反映されている。だから、何が罪であるかは法律で決めなければならない。したがって、国民には何が罪であるかを決める権利がある、ということになる。
だが、これはおかしい。人を殺すことは悪いことであり、それは、誰かがそう決めたからそうなのだ、というものではない。人間がそれを悪と認識する前から、悪は悪として存在するのである。法律は、悪を定義するものではなく、悪を認識する手段だと考えなければならない。ゆえに、法律を制定する手順にそこまでこだわる必要はなく、ある程度重要な罪が網羅されていれば、それで十分だといえる。あとは裁判官が、良心に従って判断すればいいだろう。実際に罪を認識するのは裁判官の仕事であるから、法律よりも彼らの判断が尊重されるべきである。罪刑法定主義は、必要ないわけではないが、厳密に考えなくていい。
そもそも、罪を裁く必要はあるのだろうか。
悪いことがなぜ悪いかというと、それは第一に、悪い結果をもたらすからである。たとえば、人を殺す人は、人に殺されることになるだろう。人間はみな死ぬことを恐れているから、自分を殺そうとする人間を、そのままにしておきたいとは思わない。ゆえに、人を殺す可能性のある人間は、社会から排除され、場合によっては殺されることになるだろう。
つまり、なぜ人が悪いことをするかというと、それが自分にとって悪い結果をもたらすことに気づいていないからだ、ということになる。悪人は無知ゆえに悪人なのである。ゆえに、悪人を減らすためには教育が必要であり、そのために刑罰が必要とされる。悪を悪として認識することが、悪を避けるための第一歩である。
おそらく、ほんとうは、罪を罰する必要はない。なぜならば、誰かが手を下さなくとも、勝手に罰を受けるからだ。だが、できるだけ悪を減らそうとするならば、悪人がひとりでに苦しむのを待つのではなく、先に罰を与えてしまったほうがよい。それが刑罰の意義である。それは慈悲に似ている。
生きものはみな死ぬことを恐れ、傷つくことを恐れる。そして、自分を害するものを悪と呼び、自分を利するものを善と呼ぶ。善悪は利害によって生じ、利害を離れては存在しない。個々人の利害を離れた抽象的な正義という概念は、多分に迷信的なものである。このように、利害に立脚するものとして善悪を考えるかぎり、それらは客観的に存在する。
では、利害と善悪の違いはどこにあるかというと、利害は状態であり、善悪は行為である。ある人の行為がほかの人を害する場合、その行為は悪と呼ばれる。善も同様である。そして、ある行為を実行する人物は、それに先立って、その行為を行おうとする意思を有するのであるから、その意思の存在が、善悪を判断するうえで重要な意義を持つことは明らかである。
しかるに、刑法学の通説は行為主義を採用する。処罰の対象とされるべきは人間の行為であって、意思ではないという立場である。これが意味することは明瞭ではない。というのも、個人の意思に立ち入らずに、犯罪を定義することはできないからである。人を殺そうという意思のない者を、殺人罪に問うことはできない。だが行為主義によれば、人間の内心に立ち入ってはいけないのである。この矛盾した状況を理解するためには、罪刑法定主義のもう一つの側面に注目しなければならない。
罪刑法定主義には、刑罰の種類は民主的な手続きによって定められなければならない、という要請に加えて、もうひとつ、刑法は行為規範を示すものでなければならない、という要請も含まれている。行為規範とは、これこれのことをしてはならない、という命令である。たとえば、人を殺してはならない、という刑法の文言である。この命令を国民に示し、これに違反した者を処罰することによって、国民を行為規範に従わせることが刑法の目的とされる。
ここに示される人間像は、意思のない機械である。国家は、ルールと罰を用いた条件付けによって、人間の行動を操作しなければならない。なぜならば、国家は国民の内心に踏み込んではならないからである。すなわち、内心の自由とは、内心の否定にほかならない。法律が人間の内心に立ち入ることを慎重に避けることで、心のない人間像ができあがる。そしてこの、心のない人間、意思を持たない人間にルールを教え込むために、罰を与える必要が生じる。このような人間にも、自分を害するものを厭う気持ちだけはあるからである。これが、刑法学の想定する人間像である。
我々の法律は、人間の意思に働きかけることをしない。それは、個人の意思を尊重するためだといわれているが、実際には、個人の意思を認めていないからである。意思の不存在こそが、法学の根本的な問題である。
この点を反省するとき、行為無価値論と結果無価値論の対立は解消される。すなわち、犯罪の本質は行為者の意思にあると考え、その意思と結果との因果関係を問えばよいのである。意思の存在を否定して、行為と結果との関係だけを論じるから、奇妙で複雑な議論を展開することになる。
もちろんこれは、自白の問題と深いかかわりがある。憲法38条によれば、何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされない。ここに示される思想はやはり、意思の否定である。他人の意思を知るための最も直接的な手段は、その人の話を聞くことであるから、自白が証拠とならないという憲法の規定は、意思の存在を否定するに等しいものである。
ここにおいて私は、刑法に虚言罪を設けることを主張する。一般に、人が嘘をつくことを禁止する規定である。自白が証拠とならないのは、本人が嘘を言う、あるいは言わされる可能性があるからであり、そのことが意思の存在を不明確なものにしているからである。もしも人が嘘をつくのならば、その人の本当の意思を知ることはできない。そうすると、意思の存在そのものがぼやけて、曖昧になってしまう。これは真実を遠ざけることにつながる。ゆえに我々は、人は嘘をつかず、つねに本心を語るという前提で考えなければならない。その前提を成立させるために、虚言罪が必要なのである。
ある意味で、虚言罪は、刑法学を正しく導くために必要な規定だといえる。人間の意思を法律の対象とするために必要なものである。
すべての人が平気で嘘をつく社会に、秩序が存在するはずはない。現代社会がかくも混沌としているのは、虚言罪が存在しないことが原因である。嘘をついてはいけない、という行為規範が人々のあいだに行き渡れば、人は、嘘をつくことに後ろめたさを感じ、恥ずかしさを感じるようになるだろう。
嘘をつくことに抵抗を感じないことは、異常なことである。それが異常であることを認識することが、正しい道を歩む第一歩である。
注意してほしいのだが、ここでいう意思には、悪へ向かう意思だけではなく、善へ向かう意思も含まれる。どうも我々の法学は、すべての人間が悪人であり、つねに悪に向かう傾向があると仮定しているようにみえる。しかし人間は、善へ向かう意思を持つことも可能であり、それこそが道徳の課題なのである。法律は悪に関するもので、道徳は善に関するものだ、といってもいいかもしれない。
我々の法学はあまりに悲観的で、救いがない。それは、意思について語ることをしないからである。法律と道徳を区別すべき理由はなく、我々は、それらを同時に論じるべきなのである。
我々にできることは、罪の認識を示すことである。罪を認識した者は、罪を犯さないという意思を持つことができる。それで十分であり、何かを強制しようと考えてはならない。強制されたものは意思ではなく、持続しないからである。何事かをなしうるのは人間の意思だけであり、外からの強制でできることなど、たかが知れている。ここに刑罰の限界があり、そして、新しい法律が必要とされる理由がある。
我々は、人間の意思を肯定する法学を作らなければならない。
