道徳の起源

ときどき、道徳の起源を探る、というテーマの本を目にすることがある。社会学や心理学、進化生物学などの知見に基づいて、人間の道徳性を説明する、というふうな本である。

そういう本を目にする度に、ずいぶん奇妙なことを言うものだと思っていた。たとえば、すしの起源を探る、というのなら分かる。すしという食文化がどのように発生し、どう変化し広まったのか、それを明らかにすることは可能だろうし、興味深い問題である。

なぜそれが可能かというと、実際にすしという食文化があるからである。もしもすしという文化が存在しないのであれば、その起源を知ることはできないはずである。同様に、道徳の起源を知ることができるのは、実際に道徳が存在する場合に限られることになる。しかし、この世界のどこにそんなものがあるのだろうか。

カントのたとえ話

カントの論文で、いわゆる「嘘論文」と呼ばれているものがある。彼はそこで嘘をつく権利について議論しているが、その中に有名なたとえ話が出てくる。こういう話である。

あなたは、人殺しに追われている友人を家にかくまっている。そこに人殺しがやって来て、あなたの家に友人が逃げ込まなかったか、と尋ねたとしよう。この場合、「友人は家にいない」と嘘をつくことは罪だろうか、という問題である。

カントは、嘘をつくことはどんな場合でも罪である、と述べた。たとえ友人を助けるためであっても、である。これを奇妙な答えだと思う人もいるかもしれないが、現代社会においては、これは非常に重要な問題なのである。

人殺しは誰か

まず我々が考えるべきは、この話に出てくる「人殺し」というのは、現実の社会においては何にあたるのか、ということである。友人を追いかけている人殺しが、堂々とあなたの家に訪ねてくる、ということがありうるだろうか。この人殺しはむしろ、政府の役人だと考えたほうがつじつまが合う。

つまりこれは、政府の法を犯した友人を、役人に引き渡すべきかどうか、という話だと解釈できる。そうするとカントの答えも納得できる。権力者に逆らうよりは、彼らに媚を売ったほうが得だ、という考え方である。これも一つの合理性であろう。

この話について考えるとき、あなたは、どうすれば自分の身を守れるか、ということに注意しなければならない。こういう場合に嘘をつくのはかなり危険なことで、もしも嘘がばれてしまったら、あなたの身にも害が及ぶことになるだろう。だから、正直に告白するというのは、保身という観点から見ても正解である。

あなたはまず、あなた自身の身を守らなければならない。それができなければ、元も子もないのである。これは道徳の一番の基本である。自分の安全を確保した後に、他者の安全を考えねばならない。

義侠

実はこういった問題は、カントよりも中国人のほうが詳しい。たとえば唐の時代、塩は政府の専売で、民間人が塩を売買すると非常に重い刑罰を科せられた。だが塩を売ることは、道徳的には何ら問題のない行為である。それはただ政府の都合で禁止されているだけで、倫理的には禁止される理由は全くないと言える。そうするとここには、その法は本当に公正なものだと言えるのか、という問題があることになる。

つまり、その法によって政府の財政基盤が安定し、それによって社会秩序が実現され、公共の福祉が増進されるのだとすれば、塩の専売にも十分な公共性があると言える。しかしもしもそれが、公共の利益ではなく政治家の保身のため、ただ政府を長引かせるために利用されているのだとすれば、その法には正当性がないことになる。この場合、塩の密売を取り締まる役人はまさに、カントの言う「人殺し」の役割を演じることになる。

ここで、もしもカントのたとえ話に出てくる人が、ブルース・リーだったらどうなるだろうか。彼はあっという間に殺人鬼を叩きのめして、彼の友人を救ってあげたことだろう。おそらく相手が政府の役人であっても、彼は同じことをしたはずである。これが義侠である。

中国人はカントのように、おとなしく権力になびいたりはしない。彼らは自分の身を守る術を知っている。圧政によって人民が苦しんでいるときには、必ず義侠が現れて、政府を倒してしまうのである。唐を滅ぼした反乱は、塩の密売人が主導したものだと言われている。もちろん彼らのような反逆者が、よい為政者になるとは限らないのだが。

たとえ政府の法律であっても、それが公正なものでなければ、人民はそれに従う必要はない。これが中国人の信念だと思う。そして、その正義を貫くためには実力が必要である。殺人者から自らを守り、また友人を守ることができるだけの武力がなければ、正義を実現することはできない。これこそ中国の歴史が物語っていることである。

道徳はどこにあるか

実のところ我々の社会は、カントの答えのみを正しいと考えているのではないだろうか。いまの日本には、義侠になろうという人間は一人もいない。カントのように、強いものに媚びへつらおうとする人間しかいなくなっている。本当は知識人こそが義侠を目指さなければならないのだが、彼らはみなカントを手本として生きている。

これが道徳の劣化でなくてなんであろうか。現代の社会に道徳など存在しない。誰が起源を知れるだろうか。

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