権利は客観的実在か主観的実在か

いま私は、民事訴訟法の勉強をしている。それでわかったのだが、権利というのは主観的なものであるらしい。頭が痛くなってくる。

民事訴訟法には、独立当事者参加という制度がある。たとえば、Xが、自己の所有する不動産をYに売却し、その後、Yとの契約を取り消さずに、同じ不動産をZに売却したとする。これを二重譲渡という。この場合、両方の契約が有効となりうるので、誰が権利者かという点で争いが生じることになる。そこでYが、自分が所有者であることを確認するために、Xを相手に訴訟を提起した場合、この訴訟に、もう一人の買主であるZも参加することができる。どちらが真の買主か決着をつけよう、ということである。Zは、原告とも被告とも異なる第三の当事者となるので、これを独立当事者参加という。

この場合、YのXに対する訴訟と、ZのXに対する訴訟は別々のものである。したがって、可能性としては、裁判所がYの請求とZの請求をどちらも容認するということがありうる。つまり、どちらも真の所有者だと認められるわけで、そういう判決が出たら、両者はダッシュで登記所に向かって、先に受付に着いたほうの勝ち、ということになる。もちろん、負けたほうはXに損害賠償を請求することができるので、Xが得をすることはない。

私が気になるのは、このとき、①Yの権利とZの権利は同時に存在しうるのか、それとも、②同時には存在しえないが、裁判所の能力では正確な判断ができない、ということなのか、どちらなのかということである。

もしも権利というものが客観的な実体であるならば、①はありえない。定説によれば、所有権は排他的なもので、同一物の所有権を同時に二人が有することはない。ただし、所有権というもの自体は、法律によって定義されるにすぎないものであるから、これを客観的な実体とみなすことに無理があるとも考えられる。

だとすれば、裁判所の判断が権利を創造すると考えるべきか。権利というものが法律によって作られるものである以上、それを確定することができるのは裁判所だけである。そうすると、②も間違いとなる。なぜならば、権利はあらかじめ存在しているものではなく、裁判所が作り出すものであるから、正確な判断ができないということはありえないからである。したがって、裁判所が判断したとおりの権利が生じることになる。そうすると、裁判所が矛盾した判決を下した場合、その矛盾を誰が裁くのか、という問題が生じる。これをどう考えればよいか。

私の見るところ、法学者の通説は①であり、権利を主観的なものととらえている。つまり、YにとってはYに所有権があり、ZにとってはZに所有権があり、これらは矛盾なく両立する、という立場である。

実例を挙げて説明すると、諫早湾の干拓訴訟がある。国は1989年から諫早湾の干拓事業を進めてきたが、工事の影響により周辺の海域で漁業被害が発生し、排水門の開閉をめぐって周辺住民と国の間で争いが起きた。その結果、2010年に福岡高裁は「国は排水門を開放せよ」との判決を下したが、2013年に長崎地裁は「国は排水門を開放してはならない」という真逆の判決を下した。それぞれ原告は異なるが、被告はどちらも国であり、どちらの判決も有効なものであった。つまり、前者の原告は、国に対して排水門を開けさせる権利を獲得し、後者の原告は、国に対して排水門を閉じさせる権利を獲得したことになる。これでは何の解決にもなってないが、権利を主観的なものと考えるかぎり、ここに矛盾はない。

この意味で、法律家は非実在論の立場をとっている。唯一の現実世界というものは存在せず、人の数だけ異なる世界がある。ある人の世界では、AはBに対して確定した権利をもっているが、べつの人の世界では、AではなくCが、Bに対する権利者だということになる。そうすると、裁判官の世界は原告とも被告とも異なるので、すべての判決に意味はなくなってしまうだろう。これはナンセンスである。

おそらく、法律家の感覚では、物理的な現実世界とは別の、主観的な精神世界とでもいうべきものが存在するのだろう。法律は、物理世界の問題ではなく、精神世界の問題であり、だから異なる真実が同時に存在しうるのである。あまりにも馬鹿げているが、どうやらこれが法治主義の本質のようだ。

あえて表現するならば、現実世界とは別の権利界というものが存在する。YのXに対する権利やZのXに対する権利は権利界における存在であり、その存在を確定するのが裁判所の仕事である。そして、それらの権利存在は、法律を根拠として現実存在に影響を与えることができる。この場合、現実存在と権利存在との相互作用がいかに行われるかが問題となるが、結局、この問題に解決を与えることはできないだろう。すべてフィクションだからである。

ちょっと専門的な話になるが、上記の不動産の二重譲渡の例では、訴訟物は所有権移転登記手続の請求権であり、所有権そのものに判決の効力は及ばない。というのも、所有権の確認の訴えには訴えの利益は認められず、所有権移転登記手続請求権の給付の訴えを提起しなければならないからである。しかしながら、所有権の移転は登記手続によって生じるものではなく、当事者の意思表示によって生じるものである(民法176条)以上、登記手続請求権の前提として、所有権の移転を認めなければならない。そうするとやはり、理論上は、所有権の同時存在の問題が生じることになる。

こうした問題を避けるために、法律家たちは、民事訴訟に対世効はないとか、既判力は主文の判断にのみ生じるとか、奇妙な言い訳を重ねることになる。

ここまで書いていて気づいたが、法律家は神の視点を仮定しているようだ。原告には原告の世界があり、被告には被告の世界があり、それらは互いに独立している。そして、裁判官は一段上の視点からそれらを眺め、そこに介入することができる。

もしも、それぞれの人にそれぞれの内面世界があると仮定するならば、裁判官には裁判官の世界があり、それは原告・被告の世界とは交わらないと考えなければならない。しかしそうすると、裁判をやる意味がなくなってしまうので、異なる世界をつなぎあわせる神の視点が必要になる。

人間は互いに相手の心を知ることはできないが、神にはそれができる。したがって、裁判は神の裁きであり、国家は神である。法学とキリスト教の共通点はこういう所にあるのだろう。すなわち、どちらもただの迷信である。法学を迷信の領域から引きずり出し、現実世界に立脚させるためには、権利という曖昧な概念を排除しなければならない。そのため、私は、民法を廃止することを提案している。

我々は相手の心を知ることができる。なぜなら、言葉があるからである。また、言葉以外にも様々な方法で人の心を知ることができる。ゆえに、他人の心を知ることはできないと考える必要はない。

心は客観的に存在するものである。というのも、身体が客観的な存在だとするならば、その身体を動かす心の存在も客観的なものでなければならないからである。私がコップを持ち上げようと思ったら、私の腕は実際にコップを持ち上げる。これは、心が体を動かしているということである。この意味で、心は客観的な実在であり、その真否を明確に判断しうる。

しかし、人間は嘘をつくものである。相手が嘘をついていれば、その心を知ることはできないだろう。だから、嘘を禁止する法律を作ればよいのである。その手続きを怠っているから、内面世界という珍奇なものを仮定せざるをえなくなる。じつに不合理である。

現行の法体系に嘘を禁止する法律はないが、それは内面の自由を保障するためだといわれている。これはトートロジーである。矛盾を生むために矛盾を必要としているのだ。嘘とは、事実に反する間違った言葉である。間違ったことを言うことは間違ったことであるから、嘘をついてはいけない。これが嘘を禁止する法律の根拠であり、保護法益は真理である。

以前、何かの動画で、NHK党の立花高志氏が「事実はひとつだが、真実は人の数だけある」と言っていた。その意味がようやく理解できた。あれは法律家の言葉だったのだ。

ちなみに、刑事訴訟法は司法書士試験の試験範囲に含まれないので、まだ勉強していないし、する予定もない。将来の課題としておこう。

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