女性の権利向上のために(1)

水子とは何か

日本中いたるところに水子の供養碑が立っている。あれはたぶん流産ではなく、自分で殺した子供を祭っているのだろう。ルイス・フロイスの日本史にもあるように、日本の女は自分で産んだ赤子を殺すことがある。なぜかというと、自らの権利を守るためだろう。

女性に子供を殺す権利がある場合、父系性も家父長制も成り立たないことは明らかである。そのとき、一家の権威は女性に集まることになる。一方で、自分が産んだ子供を殺すこともできないというのは、女性にとってあまりに窮屈なことである。その場合、女よりも男の方が優位に立つようになる。

ゆえに女性は、自分の権利を守るために、子供を殺す権利を手許に置いておかねばならない。それが最後にして最大の武器になるだろう。子供に束縛されるということは、男に束縛されるということである。女はまず子供から解放されねばならない。

そもそも、中絶はよいが、生まれた子供を殺すのは犯罪だというのは、道理に合わない。生まれてすぐの子供であれば、グレーゾーンでもよいのではないか。

いまは病院で出産を行うのが普通なので、すべての過程が医者に監視されていることになる。しかし医者は頭が固いので、母親が殺した子供を流産として処理するような柔軟性は期待できない。したがって、病院で出産する習慣はやめたほうがよいかもしれない。

現代では人命尊重の観念が社会に行き渡っているが、そもそも、命を尊重するということは、命を生み出す能力のある女性にとって、非常に不利なルールである。むしろ命をないがしろにすることによって、女性は自分の能力を最大限に利用できる。

死があるからこそ、生をもたらす女性に力が与えられる。死を否定してしまえば、女性の力は奪われてしまう。この点をよく理解しなければならない。女性の力は死の力である。

日本における女性の地位の変化

女性と子殺しの問題について、気になったのでもう少し書いてみる。

古くはイザナギの黄泉巡りのときに、イザナミは一日千人の人間を殺すと言い、それに対してイザナギは千五百人の子供を産ませようと答えた。女は子供を殺そうとし、男は子供を生かそうとする。一種の緊張関係がここから読み取れる。

日本は歴史的に女性の活躍が多い国である。卑弥呼に始まり神功皇后や持統天皇など、女性皇族の活躍も目覚ましい。平安時代には仮名文字という女性のための文字が発明され、それを用いて清少納言や紫式部が優れた文学を生み出した。世界的に見ても、政治や文学の分野において、これほど女性が活躍した国は他にない。

この世は無常である。人の命はいずれ失われるものである、という冷静な認識が、日本人の人生観を形作っている。そのため、こういう言い方は誤解されるかもしれないが、日本人はあまり命にこだわらなかった。

それが変わってきたのは近世からだろう。徳川五代将軍綱吉が行った生類憐みの令は、命を保護するという考えを人々に植え付けるための政策だったと言われている。彼は後に捨て子禁止令を発したこともあり、人命を尊重することを政治理念としていたようである。

たとえば松尾芭蕉の句に「猿を聞く人捨て子に秋の風いかに」というものがあり、道端に子供が捨てられている光景が、江戸初期から中期にかけては普通に見られたことが分かる。それを改善しようとした綱吉の政策は、たしかに評価に値するだろう。

一方で、そのように生命尊重の思想が発達するにしたがって、社会における女性の地位は低下し始めた。そして明治以降、あるいは大戦以降と言ったほうが正確かもしれないが、西洋思想が日本に流れ込むことで、人命尊重は社会の絶対的なルールとなってしまった。同時に女性の自由は大きく制限されるようになった。

思うに、西洋思想の根源はキリスト教にある。いわゆるリベラリズムは人間を平等なものと考え、すべての生命を尊重することが一つの特徴になっている。その根底にあるのは、神が創った生命は等しく尊重されるべきだという、キリスト教の観念であろう。このような考え方はおそらく、男性の権力を確立するために作られた。

それは、女が産んだ命を、男が奪い取るための思想である。命を作り出すのは女ではなく、父なる神である。そう考えることで、女性の持つ命を生み出すはたらきを、男性側がコントロールしようとしたのではないか。キリスト教は家父長制の神話的表現である。

捨て子の存在は、女性の力の過剰さを象徴しているように思われる。いまの日本には、捨てるほど子供はいない。生と死は表裏一体であり、生の豊饒さは同時に死の豊饒さを意味している。それらのうち片方だけを受け入れることはできない。我々は両方同時に受け入れねばならない。

森会長の発言について

最近、JOCの森喜朗会長の発言が世間を賑わせているので、一応私の意見も記しておく。報道によると森氏は「女性は競争意識が強く、他人が発言すると自分も発言したがる。だから女性がいる会議は時間がかかる」という趣旨の発言をしたという。

発言の内容については、概ねそのとおりだと思う。たしかに女性はそういう傾向がある。彼の発言が事実と相違するという根拠を示さずに、それを差別だと主張するほうが不適切であろう。

同じ状況に置かれても、男性と女性とで異なる行動を取るのは当然で、その現実を否定することからは何も生まれない。もちろん、すべての女性がこれこれの性質を持っているとか、すべての男性がこれこれの性質を持っている、とは言えないが、一般的な傾向はたしかにある。女性のほうがこういう行動を取りやすいとか、男性のほうがこういう行動を取りやすい、ということは言えるし、言っても良いと思う。

女性と接するときと男性と接するときとで、態度を変えない人間はいないのだから、みな無意識では男女の違いを理解している。しかし意識の上ではそれを否定しようとするのだから、これは一種の精神異常と言ってよいのではないか。

事実として男女の違いはある。それを否定することは不合理である。そのような、事実と相違する主張を行うよう他者を強制することは、人権を無視した蛮行ではないか。

客観的な判断とは、自分自身の経験に基づいた判断である。何の経験にも基づかない判断は、単なる思い込みにすぎない。感覚や経験を通して得た知識が最も確実であり、それに基づいて判断を下すことが科学的な合理性である。

自分の経験に照らして、女性は競争心が強いと判断できるのであれば、それは十分に合理的な判断と言える。男女は平等だという思い込みによって、自他の経験を否定することは、不合理な判断である。

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