民法について考えたこと

仕事と家庭

民法の教科書をだいたい読み終わったので、いろいろ考えたことを書いておく。

日本の民法は、第一編が総則、第二編と第三編が財産法、第四編と第五編が家族法という構成になっている。前半では市民間の契約による経済活動を取り扱い、後半は婚姻、離婚、相続などの家族に関する規律を扱っている。

民法が描く人間社会は二つに分断されている。一つは家庭であり、人間はそのなかで利他的にふるまうものとされる。第752条によれば、「夫婦は同居し、互いに協力し扶助しなければならない」。この条文が意味することは、家族は助けあわねばならないが、家族以外の人間は助けあわなくていいということである。

民法は、家族とそれ以外を明確に区別する。人は家庭の中では善人であるが、一歩家庭の外に出れば、悪人に変貌する。そこでは自立した人間として、自己の利益を追求することを求められる。

第709条には、「故意または過失によって他人の権利または法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う」とある。これは不法行為による損害賠償を定めた条文であるが、ここでいう賠償は基本的に金銭によってなされる。侵害された利益がいかなるものであろうとも、それが身体であれ生命であれ人とのつながりであれ、すべて金銭に換算されるのである。

この社会ではあらゆる問題がお金で解決され、人間の生活はただ金儲けのために費やされる。そんな殺伐とした人生における一服の清涼剤が家庭である。家庭にいるあいだ、人は慈愛に満ちた穏やかな気持ちに浸ることができる。彼はそこで人間性を取り戻し、再び悪人の仮面をつけて社会に出てゆくのである。家庭の外で彼は、利益を追求する機械となることを要求される。

これが民法的な人間像である。法律は社会の形を決める。これが人間社会の本来の姿だから、こういう法律ができたわけではない。こういう法律があるから、こういう社会になったのである。

民法には次のように書くべきである。「すべて人は、互いに助けあわねばならない」。家庭の外では悪人で、家庭の中では善人になる。そういうダブル・スタンダードが人間の精神を劣化させ、善悪の境目を失わせてしまうのである。人は家族以外の人々とも互いに協力しなければならない。そうでなければ人間社会は成り立たない。

法律の本を読むと、法学者の方々がいかに人格者であるかがわかる。法律は弱者を守るためにあると、彼らは本気で信じている。このような善人たちによって、悪人の社会が守られているのである。これほどの矛盾があるだろうか。なぜ彼らは、人間は善人であるべきだと法律に書こうとしないのだろうか。なぜ悪人をほったらかしにするのだろうか。

なぜならば、それが民主主義だからである。人間はみな悪人であるが、彼らにも意外な一面があり、家庭においてはまったく善良にふるまうのである。それでは動物と変わらないが、その動物たちに秩序を与えるために、神は民主主義をお与えになった。これが民主主義者の語る神話である。その神話通りの世界を先人たちは作り上げてしまった。いったいこれをどうすればいいのやら。

なぜヨーロッパ人が神を必要とするかというと、それ以外に善の源泉がありえないからである。人間はみな善を求めているが、彼ら自身は悪である。ゆえに、人間以外のものが人間社会に善を与えなければならない。そこで必要とされるものが神であり、民主主義である。

民主主義そのものは人間ではなく、単なるシステムにすぎないが、そのシステムが人間社会に善をもたらしてくれる。つまり、民主主義は神の代替物として機能するのである。これがヨーロッパ人をおおいに喜ばせた。我々自身は悪人のままでも、どこかの誰かが善を実現してくれる。それが自由な人生にとって必要なことなのだ、と。

彼らは自由をはき違えている。自分のあるべき姿を自分で決めることがほんとうの自由である。人間は生まれつき悪であるとか、生まれつき善であるとか、そういう思い込みにとらわれることが不自由である。人間は善を行うこともできるし、悪を行うこともできる。それはひとえに彼の意志による。

排他的でない所有権は可能か

民主主義と資本主義

ジョン・ロックは所有権の根拠を資源の無限性に求めている。

またこのように、改良してある一部の土地を占有することは、他の人の害にはならなかった。まだたくさんの土地が充分に残されており、土地のない人が利用しうる以上に残っていたからである。したがって、実際のところ、誰かが自分のために囲い込みをしても、他の人の分が減るわけではなかった。他の人が利用するのに充分なだけ残しておけば、まったく何も取らないのと同じである。他の人がたくさん水を飲んだからといって、自分の渇きをいやすのに川の水が充分残っていれば、誰も他の人に被害を受けたとは思わないであろう。土地の場合も水の場合も、それが充分にあるところでは、まったく同じことが言える。

『統治論』第二篇第五章第三三節

土地を所有する権利が認められるのは、そうすることによって、他人の利益を損なうことがないからである。なぜならば、地上には十分に多くの土地があるから。これが所有権が認められる理由である。

いまや我々は、この素朴な所有の概念を維持できなくなっている。地球上の土地も水も有限であり、その不足が問題になっているからである。どんな資源にも限りがあるため、それを少数の人間が独占し、彼らの利益のためだけに使用することは許されない。それは単に不平等であるのみならず、人類の生存を脅かし、また、資源を所有しない人々に不当な苦しみを与えることになるからである。

ここでいう資源は、天然資源だけでなく、労働力や不動産等、人間の生活に役立ち、社会において価値があると認められているものすべてを含むと考えてほしい。

そもそも、人が何かを所有することと、所有する権利を持つこととは全く別のことである。所有は人と物との関係であるが、所有する権利は人と人との関係である。すなわち、ある人の所有物を他人が使用することを禁止すること、また、それを使用した場合に罰を与えることが所有権の内容である。

この所有権という概念は、国家の存在を前提として成り立っている。個人の所有権を侵害する者を、国家権力が取り締まり、これを罰することができる場合にのみ、権利という概念は意味を持つ。これを明らかにするのが民法である。民法は、国家が国民の生活に関与し、その所有権を保護するように働くという、国家権力のありかたを規定するものにほかならない。逆にいえば、個人の所有権を保障するものこそが国家なのである。これが近代的な国家の概念である。

個人の所有権を守るために国家が必要とされ、そのために社会契約が行われる。その社会契約を有効なものとするために、民主的な手続きが必要とされる。つまり、民主主義は所有権を実現するためにある。それがロックの考えである。

我々はここで、国家権力による所有権の保障が資本主義の条件となっていることに気づく。商人が自由に商品を売買することができるのは、国家権力がそれを保障してくれるからである。もし彼の権利を害する者がいれば、国家の名のもとに、彼はその者に対して賠償金の支払いを請求できる。加害者が支払いを拒めば、国家が被害者に代わって取り立てを行う。こうした所有権の保障は資本主義の基本的な条件であり、その成立に民主主義が関わっている点に注意しなければならない。

民主主義が近代国家を誕生させ、近代国家が所有権を保障するようになり、その結果として資本主義が発達した。そして断言するが、資本主義こそが地球温暖化の原因であり、格差の構造を作り出す元凶なのである。ゆえに我々は、もはや民主主義に手心を加える必要はない。民主主義こそが悪であると言わねばならない。

このあたりの話は、読者諸氏にはもうおなじみだろう。

税金と権利

私がここで考えたいのは、所有権を否定する場合、我々はどのような法律を持つべきなのか、ということである。

日本の民法は徹頭徹尾、権利という概念に貫かれている。はじめに物権があり、つぎに債権があり、契約によって生じる権利もあれば、法律によって定められる権利もある。債務の履行を怠れば損害賠償請求権が生じ、物権が侵害されれば妨害排除請求権や返還請求権を行使することができる。こうした権利をめぐる思考こそが近代法の本質である。

では権利とは何かといえば、利益の保証にほかならない。ある人に属する利益を他の人が侵害することは許されない。Aさんが働いて稼いだお金はAさんのものであり、Bさんがそれを使用することはできない。Bさんが勝手にそれを使用すれば、刑法上の窃盗罪にあたり、また、民法上の不法行為となる。

だが、そもそも利益とはなにか。金銭は利益ではない。それは利益を得ることを可能にするものである。我々は金銭を支払って外食店で食事をし、量販店で家電製品を買うことができる。直接的な利益はその食事であり、家電製品である。そして、それはまた別の権利関係を生じさせるのである。外食店で食事をすることは、客側に金銭の支払いという債務を発生させ、店側に金銭を受け取る債権を発生させる。家電製品の購入は購入者側に、製品に不備があった場合、販売者に対して完全な製品の引き渡しを要求できる追完請求権を発生させる。それらの権利の向こう側には、さらにまた無数の権利が存在するのである。

もしかすると、Aさんのお金を勝手に使用したBさんは、別のところでCさんにカツ丼を提供し、そのカツ丼を食べて英気を養い仕事を成功させたCさんが、いまのAさんの雇い主なのかもしれない。

権利という概念は、人間どうしの関係によって成り立っている現実社会を、その一側面において切断し、単純化したものにすぎない。社会という複雑な組織の一部を切り取り、ホルマリンで固定して、スライドガラスにのせて顕微鏡で観察しているようなものである。我々がいま誰のおかげで生きているのか、ほんとうは誰にもわからないのに、近代法はそれを権利という概念に単純化してしまう。我々が生きているのは生存権があるからである。法律はそう説明するが、そんなはずはない。

Aさんは雇用契約に従って労働に従事し、その対価として金銭を受け取った。Aさんの労働によって、使用者であるCさんには金銭を支払う債務が発生し、Aさんには金銭を受け取る債権が発生した。この債権を侵害しようとする者からAさんを守ってくれるのが民法であり、国家である。では、その国家を支えているものは何かといえば、税金である。Aさんの金銭債権の一部を国家が頂戴することで、その債権の保障を行っているのである。これはまさにBさんのしていたことにほかならない。

いったいこれは何なのか。権利という概念によって、何が保障されているのか。ほんとうに何かが守られているといえるのだろうか。

無償の労働

国民は権利を保障してほしい。だが、税金は払いたくない。この願いを両立させる方法はあるだろうか。

いまでも、町中の中華屋さんでは出前をとっていると思う。電話でメニューを注文すると、自宅まで届けてくれるのである。だいたいどこのお店でも、追加料金は取らない。

そこで、ウーバーイーツと同じように、中華屋さんでも出前代を請求するようにしたとしよう。一回の出前につき300円とか500円とか、手数料をとる。そうすると何が起きるかというと、手数料の10%が消費税として徴収されるのである。無料のサービスならば税はかからないが、これを有料にすると税金が発生する。

中華屋さんは出前サービスを無償で提供する。だが、そのサービスを提供された客も、ほかの時間には仕事をしているはずだ。だから、彼が仕事をしているときに、だれかほかの人に無償でサービスを提供すればいい。その人もまた、べつの機会にべつの人に無償のサービスを行うのである。そうすれば、めぐりめぐって、はじめの中華屋さんにもなにかいいことがあるだろう。だからこの方法でも、サービス料を請求するのと同じ効果が得られるはずだ。もちろん、まったく同じとはいえないが、長い人生で考えれば、それでいいのではないかと思う。

この話の前提になっているのは、人はみな人を助けるために働く、ということである。そのなかに自分のことしか考えない人間が混じっていると、この話は成り立たなくなる。我々が税金を必要とするのは、悪人だらけの社会で善人を保護するためである。ゆえに、善人だらけの社会になれば、税金は必要なくなる。

これは理想論にすぎないのだろうか。いや、これこそが普通の社会なのだ。民主主義に汚染されるまえの日本社会は、まさにこのような姿だったと考えられる。

いまの日本では、自力救済は禁じられている。自分のものが誰かに盗まれた場合、それを自分で取り戻すことは許されず、警察や裁判所に訴えて、公権力によってそれを取り戻してもらわねばならない。人が殺されたときも同様である。自分の親が殺されたからといって、復讐することは許されない。法の裁きを待つしかないのである。

だが江戸時代は違った。親を殺された者は、それを藩に届け出て、仇打ちをしなければならなかった。これは自力救済であると同時に、国民の手に司法をゆだねることを意味した。

現代社会では、国民は悪であり、国家は善である。ゆえに、正義は国家の名のもとに行われねばならない。一方で、もし国民が善であることを認めるならば、国民が自分で正義を行うことも認められてしかるべきである。もちろん、最終的な判断を下すのは政府であり、政府が絶対的な権力を持っていなければならない。その点は否定しない。だが、国民生活のすべてを国家が監視する必要はない。ある程度は国民の手にゆだねるべきである。

私はこの点で、江戸時代の法律が参考になるのではないかと考えている。明治政府が手本にしたという大明律も興味深い。いまは現行法を学ぶので精いっぱいで、そこまで手が回らないが、今後の課題である。

所有権は誰のため

たしかに、国家が国民の権利を保障してくれるのはよいことである。それによって、国民は安心して生活できる。だが同時に、国家は手数料を要求する。国民がより強い保護を望めば望むほど、ますます多くの権利が国家に吸い上げられてしまうのである。

それでよいではないか、と考える者もいる。国家が税金を徴収し、それを国民に還元することによって、貧富の格差が是正され、平等が実現されるはずだ、と。

そうなるためには、国家は富める者からより多くの税を徴収し、貧しい者により多くの保護を与えなければならない。だが、所有権を保護されることで得をするのは、おもに富者である。なぜならば、貧者は何も持っていないから。ほんとうの弱者は見捨てられるだけなのだ。

そもそも、税金で運営される政府は、より多くの税収を得るために、活発な経済活動を望む傾向がある。そして、経済を活性化させるためには、資本家に積極的に投資を行ってもらわねばならず、どうしても資本家を優遇する必要が出てくる。実際、日本では、消費税の導入によって低所得者の生活が厳しくなる一方、法人税や投資課税は引き下げられ、資本家の利益が保護されるようになっている。自由な経済活動の名のもとに、投資は活性化され、その一方で、経済活動への寄与が少ない低所得者層は切り捨てられる。こうして国家による権利の吸収と財産の保障は、資本家をますます富ませる方向に進むのである。

では、どうすればいいのか。

ひとつの答えは、税金を廃止し、所有権の保障をやめることである。国家が国民生活を監視するのは、権利の保障もさることながら、税金を徴収するためでもある。したがって、税金を廃止するならば、国民は国家の監視から解放される。これは、日々税額の高さに不満を漏らしている高所得者層には朗報であるが、同時に彼らの財産は誰にも保障されなくなる。そして、資本家の身を守るのは、労働者の同意だけだということになる。労働者が不満を申し立てたとき、資本家の財産を守ってくれる国家はもはや存在しないのである。

労働者が税金を払うのは、資本家の財産を保護するためであり、彼ら自身のためではない。そして、いざというときには、国家が資本家を守ってくれるのである。一方で、もし税金を廃止するならば、資本家の財産は保護されなくなり、自分でそれを守るしかなくなる。そのためには、資本家が資本を運用するおかげで労働者が生活できているのだ、ということを労働者に説明し、説得しなければならない。つまり、労働者の同意によって、資本の活動が許されるのである。ここに国家が介在しない点が重要である。

我々はここで、資本や個人所有そのものを否定する必要はない。ただ権利を否定すればよいのである。権利とは、個人の財産を国家が保護することであり、それはおもに暴力によってなされる。民法の規定に意味があるのは、それが国家の暴力によって裏付けられているからである。その暴力は、もっと有意義なことに使われねばならない。

所有権を保障することは、国民の福祉を向上させない。民主主義は国民を幸福にしない。ほんとうの豊かさは民主主義を否定した先にあるのだ。

東京裁判の民法的解釈

東京裁判を土地の権利をめぐる問題として考える。

Aはあるとき、Bの所有する甲土地を不法に占有した。Bは甲土地を取り戻すためにAを訴えようとしたが、じつはその土地はBのものではなく、Cのものであることが発覚した。Bは、Aよりも前にCの土地を不法に占有し、それを自分の土地だと言い張っていたのである。

甲土地の本来の所有者はCであり、Bには何の権限もなく、B自身もそれを認めざるをえなかった。ゆえに、BにはAに損害賠償を請求する権利も、土地の返還を請求する権利もない。にもかかわらず、Bは自分の主張を通すために、自分が裁判官になって裁判を行うと言い出した。

そもそも、なぜAがBの土地を奪ったのかというと、本来の所有者であるCにそれを返すためだったという。しかし、CがAに土地の返還を依頼した事実はなく、AはCのためと称して、無権限で土地を占有したことになる。つまり、AはCの無権代理人に相当する。

ここで、CがAの行為を追認すれば、Aの行為に対してCが責任を負うことになるが、それはできない。なぜなら、Aは武力行使をしているので、その行為を認めれば、Cも犯罪者になってしまうからである。Cは内心Aに感謝しているものの、同時に迷惑にも思っており、Aの行為を容認することはできない。したがって、Cはあくまで被害者の立場に留まる。

このため、この問題はAB間の紛争として処理するしかない。すでに述べたように、BにAを訴える正当な理由はないのだが、Bは納得がいかず、自分で裁判を開いてAを裁くことに決めた。これに対してCは、Bにそのような権限はないとして抗議を行ったが、Bはこれを無視して裁判を強行した(インドのパール判事)。

Bの目的はAを一方的に断罪し、これを処罰することであったが、失敗した。というのも、A側の代表者は昭和天皇だったが、その責任は不問に付され、退位すらしなかったのである。この結果はBの敗北だった。なぜBの試みが失敗したのかというと、甲土地の本当の所有者がCであることを認めてしまったからである。Bが勝つためには、Aに奪われた土地を力ずくで取り戻し、所有権に関して疑義を残さないようにしてから、その土地の真の所有者としてAを裁く必要があった。それができなかったために至極奇妙な裁判が行われ、Bは歴史に汚名を残すことになったのである。

以上が東京裁判のあらましである。いうまでもなく、Aは日本、Bは連合国、Cはアジア諸民族、甲土地は大東亜共栄圏である。

日本国内における問題ならば、日本国民法によってこれを解決することができる。しかし、国際社会に民法は存在しない。ゆえに、土地の権利関係は武力行使によって決着をつけるしかない。それがいまウクライナやパレスチナで行われていることである。

この混沌とした世界に秩序をもたらすためには、普遍的な民法を作る必要がある。世界政府が世界民法を施行し、全世界を単一の法典によって統治するようになれば、世界は平和になるだろう。それが、我々が目指す新しい世界の形である。

民法で無権代理という概念を学んだので、こんな文章を書いてみた。これから問題集を解かねばならない。

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