イラン・イスラエル戦争

イスラエルとハマスの戦争はもう2年近く続いているが、先月あたりから状況が変わりはじめた。2025年6月13日、イスラエルはイランへの空爆を開始した。イスラエルのねらいは、イランのハマス支援を中断させることだと思われる。アメリカもこの攻撃に加わり、22日には米空軍がイランの核関連施設を爆撃した。

これに対する報復として、イランはカタールの米軍基地をミサイルで攻撃した。この反撃は抑制的なものであり、イラン側は事前にカタール政府に警告していたという。トランプ大統領はイランの事前通知に謝意を示し、イランとイスラエルの停戦を呼び掛けたと報道されている。

イスラエルとイランが交戦状態に入ったことで、中東紛争がさらに拡大することが懸念された。しかしアメリカが介入することで、イランは思いとどまることができた。おそらくネタニヤフは、トランプが攻撃に踏み切ることを織り込んでイランとの戦争をはじめたのだろう。イランといえども、さすがにアメリカと事を構えたくはない。ネタニヤフは仇敵イランに一矢報いるという実績を作り、同時にアメリカを巻き込むことで、ハマスとの戦争に区切りをつけることができる。トランプの人の良さがネタニヤフに利用されたようだ。

アメリカとイランは事前に示しあわせていた、といううわさもあり、いまのところ、どちらも本気で戦争を始めるつもりはないらしい。だが、こういうことを続けていれば、いずれ引き返せない一線を越えてしまうだろう。

世界はますます混沌としてきた。

問1

そもそも、なぜ戦争が起きるのだろうか。

それは、2つの国があるからである。

Aという国と、Bという国があり、互いに争いをはじめると戦争になる。ゆえに、AとBをまとめてひとつにしてしまえば、戦争は起きなくなる。これが天下統一である。戦争をなくすためには、天下を統一しなければならない。それが世界政府である。

問2

なぜ戦争はなくならないのか。

もうひとつの答えは民主主義である。民主主義には社会を分断する力がある。

ヨーロッパには、フランスとドイツという国がある。民主主義がそれぞれの国民を団結させ、強固な国民国家を作り出したが、もっと大きな視野から見ると、フランス国民とドイツ国民は分断されているように見える。

民主主義は、世界を敵と味方に分断する。この線からこっち側は味方で、向こう側は敵だ、というふうに、明確な境界線を引くのである。これが一方では同調圧力を生み、他方では異質なものへの攻撃性を高める。

民主主義とは肥大化したエゴイズムである。それは自我を拡張して国家全体に及ぼすことである。自分が自分を支配しているのだから、自分にとって不利益になることはできない。それが国民主権である。だから民主国家は必然的に福祉国家になり、国民のための政治が実現される。しかしそれは自我の拡張にすぎず、自分自身の延長として国民を保護しているだけだ。ゆえに、自我と一体化できない異分子はその存在を許されず、社会から排除されることになる。これをいじめという。

民主主義は国民の均一性を要求し、普通とは異なる人間を排除することにより、その権力を維持している。つまり、民主主義の本質はいじめである。その攻撃性はやがて絶対的な他者たる外国へ向かい、戦争がはじまる。

なぜNATOはロシアを敵視するのか。なぜアメリカはイランを敵視するのか。なぜならそれが他者だからであり、それ以上の理由はない。民主主義は国民を団結させるために敵を作り出し、戦争へと向かわせるのである。

人間社会は助け合いでできている。他者への思いやりが社会の潤滑油である。

民主主義者は、思いやりは不要だと説く。思いやりがなくとも、エゴイズムだけでうまくいくのだと。彼らの言うとおりにした結果、いま日本はどうなっているだろうか。世界はどうなっているだろうか。

民主主義は人を疑うことからはじまる。権力者は必ず悪いことをするはずだ、だから国民が監視しなければならないのだ、と、人々の間に不信の種を植える。そうして人を信じることができなくなると、自己の延長としてしか他者を受け入れることができなくなる。それが自分と異なる人間への恐怖を生み出すのである。

このようにして、民主主義は人々の恐怖と攻撃性を煽り、そこから団結力を引き出す。それは政治思想として根本的に間違っている。政治の本質は人を疑うことではなく、人を信じることである。国家の意志決定を一握りの人間にゆだねるためには、高度な信頼が必要である。だが、その信頼が民主主義によって培われることはない。それはせいぜい、多数派に迎合する日和見主義者を作り出すだけだ。

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