ヴァイデーヒー夫人

『観無量寿経』にヴァイデーヒー夫人という人物が登場する。マガダ国の王妃で、夫のビンビサーラ王との間にアジャータシャトルという息子がいた。

アジャータシャトルはあるとき父王を塔に幽閉し、王位の簒奪をくわだてた。幽閉された王は食事を与えられず、餓死しようとしていたが、妃のヴァイデーヒーが体にバターを塗って面会に行き、それをなめさせることで、なんとか命をつないでいた。

しかし、ヴァイデーヒーの行いはアジャータシャトルに露見してしまう。怒り狂った王子は剣を抜いて母を殺そうとするが、すんでのところで大臣が止めに入り、剣を収めた。ヴァイデーヒーはいっとき危機を逃れたものの、夫と同様に牢屋に閉じ込められ、そこで命を終えようとしていた。

自分の人生をはかなみ、後悔にさいなまれながら、ヴァイデーヒーは最後に一目ブッダにお会いしたいと願った。その瞬間、彼女の目の前にブッダが姿を現し、語りはじめたのが阿弥陀仏と極楽浄土のお話である。

西方安楽国におわします阿弥陀仏はとても慈悲深いお方で、かの仏の姿を心に思い描いたものはみな、清らかな光に満ちたえもいわれぬ美しい世界に生まれ変わり、無量の幸福を得ることができる。その御名を聞いただけでも、その世界に生まれることができるだろう、と。

この話を聞き終わり、ヴァイデーヒーは悟りを開いたという。

念仏とは何か。

それは希望である。未来に希望を持つことである。

ヴァイデーヒーはこの世界に絶望していた。息子が父を殺そうとし、母である自分も手にかけようとしている。この苦しみから逃れるすべはない。そして、そのような最期を迎えたのは、生まれた直後の息子を殺そうとした、過去の自分の行いに原因があるのだ。彼女はあらゆる希望を捨て、ただ死に向かおうとしていた。実際、今日か明日にでも命が尽きる運命だった。

そういう境遇にある人に、いったいどんな言葉をかければいいのか。

おそらく、ブッダもあきれ果てていただろう。権力をめぐって親子同士で殺しあう、倫理もなにもない、けだもののような人たちである。こういう人たちになにを説いても手遅れだ。それならば、死後の幸福を説くしかない。

この世界がどれだけ絶望的であっても、未来に希望をつなぐことはできる。どんなときでも希望を捨ててはいけない。死の淵にあり、近いうちに確実に死をむかえるヴァイデーヒーに対して、それでも希望を持ってほしいというブッダの思いが『観無量寿経』には込められている。

我々はみなヴァイデーヒーである。人間は必ず死ぬのだから、死ぬまでに何をするか、自分の人生を何のために使うかを考えねばならない。

人間の生は一瞬で、その価値はヴァイデーヒーも我々も変わらない。たぶん彼女はブッダの話を聞いたあと、すぐに死んだはずだ。だが死ぬ前に、生死を超越した価値を見つけた。それがさとりなのだろう。

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