山上徹也の被告人質問

先月20日から、安倍元首相銃撃事件の被告人、山上徹也の被告人質問が行われている。信教の自由に関わる問題なので、注目している。

山上被告の母は統一教会信者で、教会への献金のために財産を失い、そのために山上は過酷な人生を歩んできたという。こうした問題を抱えるのは彼だけでなく、他の教会信者の親族にも、同様の問題を抱える人が多くいた。

しかし、日本社会はこの問題に適切な解決を与えることができなかった。なぜかというと、信教の自由が認められているからである。何を信じるかは個人の自由なので、他人が口を出してはいけない。奇妙な信仰のせいで不幸になる人がいたとしても、救いの手を差し伸べてはいけない。なぜなら、彼はその信仰によってすでに救われているからである。

こうした問題には、裁判所も積極的に関与しようとしない。宗教の教義に関する問題は「法律上の争訟」にあたらず、司法権は及ばないとされているからだ。オウム真理教の場合も、大きな事件が起きたあとでようやく解散命令が出された。最高裁はこの命令に合憲判断を与えているが、事件が起きてからでは遅すぎるのである。

政治も司法も、宗教被害者を救おうとしない。もしも山上被告が、自分の力で問題を解決しようと思ったら、彼自身が国会議員になって、統一教会を解散する法律を作るしかない。だが、信教の自由という理念が広く共有されている日本社会において、彼の思想の賛同者を集めるのは難しいだろう。したがって、民主的な手続きによって、統一教会の被害者を救うことはできない。

こうした状況が彼を絶望させ、凶行に至らせたのだろう。民主主義は多数決で物事を決めるので、自分の意見を通すためには、多くの者の賛同を得なければならない。そのためには、信教の自由のような、民主主義社会において支配的な思想に迎合する必要がある。では、その思想に見捨てられた人々は、どうやって自分の身を守ればよいのか。宗教に苦しめられている人は、どうやって意志を貫けばよいのか。その答えが武力であった。

安倍晋三は民主主義に殺されたのである。山上徹也も安倍晋三もともに、民主主義の被害者である。

私見を述べれば、信教の自由を認めるべきではない。事実に反する主張を行う宗教を信じても、不幸と混乱がもたらされるだけだ。それは救いではなく詐欺である。

もちろん、嘘と真実を見分けるのは難しい。たとえば、日本神話によれば、天皇家の祖先は高天原の神々である。あるとき、アマテラスとスサノオがけんかをはじめ、その仲直りのさいに、アマテラスのかんざしをスサノオが噛みくだき、そこからオシホミミが生まれた。このオシホミミをアマテラスがもらい受け、その子供のニニギが中つ国に降り立ち、天皇家の祖先になったとされる。

この説話の真実性を問うことに意味はない。そもそも、何を言っているのかわからないからである。真実であることを証明することはできないが、真実でないことを証明することもできない。そうすると、これは信仰の問題になる。

一方で、聖書に書いてあることは嘘である。聖書の神はユダヤ人にパレスチナを与えるといったが、実際には、ユダヤ人はパレスチナを追い出され、世界中を放浪することになった。すなわち、神は嘘をついたのである。歴史的事実に反することが書いてあるから、これは嘘だと判断できる。

信教の自由とは何かというと、端的にいえば、聖書を信じる自由である。聖書に書いてあることは明らかに嘘なのだが、それを信じる自由を認めろということである。私は統一教会の教義をよく知らないが、聞いた話では、聖書の影響を強く受けているようだ。

嘘を信じても救いはもたらされない。ゆえに、嘘を信じる自由を認めるべきではない。聖書の1ページ目には、この物語はフィクションです、という断り書きを入れるべきである。

以上は事実性に関する議論だが、もう一つの観点として、道徳性、倫理性に関する議論も必要である。なぜなら、道徳的でない宗教を認めるべきではないからである。

仏教には、自業自得という言葉がある。自分が犯した罪の責任は自分が負う、ということである。自分の罪を他人に負わせることはできない。これは倫理の問題である。

一方で、キリスト教には、原罪という教義がある。人は生まれながらに罪を負っている。その罪は自分が犯したものではなく、人類の始祖アダムが犯した罪を、その子孫である我々が負っているのだ、とされる。そんなバカな話はない。どうして親の犯した罪を子供が負わねばならないのか。これは自業自得の原則に反し、人倫に反する主張である。

思うに、原罪思想の起源はインドにあって、輪廻の思想に影響を受けたものではないか。輪廻を仮定するならば、過去の人生で罪を犯した人が、生まれながらに罪を負っていることもありうることになる。自業自得の原則に沿う形で原罪を説明できるのだ。これがどこかで誤って伝わり、キリスト教の原罪の教義になったと思われる。

ここでは、事実に反するというより、倫理規範に反するという意味で、キリスト教の真実性が否定される。キリスト教を例にとったが、ほかの宗教も同様の枠組みで判断できると思う。我々は、宗教の領域を無法地帯として放置するのではなく、その是非を判断しなければならなない。

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