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表現の自由とは、正しいことを言う自由である。間違ったことを言う自由は存在しない。この点に混乱があると思う。
仏教では、身・口・意の三業に気をつけろと言う。このうち身と意、つまり身体と心の行いに気をつけろ、というのは現代の人にもよく分かると思う。しかし、口の行いに気をつけろ、というのは理解しにくいのではないか。
たとえば、人を殺してはいけないとか、心の中で人を害することを考えてはいけないとか、そういう話は分かりやすい。それは身体と心の行いである。
では、口の行いとは何かといえば、たとえば嘘をついたり、守れもしない約束をしたり、人に気に入られるために適当なことを言ったり、人の悪口を言ったり、そういうことである。それは、やってもやらなくてもいいことではなくて、やってはいけないことである。そういう意識が、現代人には欠けている。
嘘をつくのは悪いことだし、守れない約束をするのも悪いことである。それは、人を傷つけたり、人のものを盗んだりするのと同じように、悪いことである。
それを悪いと思わない人が多いのは、どうやら、法律で禁止されていないなら何をしてもいい、と考える人が多いせいではないか。
嘘つきを法律で罰することはできない。それはそもそも不可能である。だからといって、嘘をつくことは悪いことではない、ということにはならない。法律で禁止されていなくても、悪いことは悪い。それが分からないと、言葉による行いに注意しろ、ということも理解できない。
そして表現の自由に対する誤解が、この状況をより悪化させている。表現の自由とは、何を言ってもよいということではない。人間には、言っていいことと悪いことがある。正しい言葉の使い方と、間違った言葉の使い方がある。正しいことを言う自由は誰にでもあるが、間違ったことを言う自由は誰にもない。それが、表現の自由の本来の意味である。
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もともと表現の自由というものは、政治的な文脈から出てきたものだろう。したがって表現の自由という言葉は、政治的な発言の自由を意味しているのであって、それ以外のことを意味しているわけではない。
にもかかわらず、西洋人はどんなものでも政治と結びつけて考えようとするので、あらゆる場合に表現の自由が認められるべきだ、と考えられるようになってしまった。
しかし、人間のすべての活動が政治的であるわけではないし、また、そうあるべきでもない。個人のあらゆる言動が政治的であると考えることは、一種のパラノイアである。
西洋人にとって、権力とは絶対的なものであり、人間の生活全てに行き渡っているものである。彼らがそう考えるのは、政治的な権力を、神の力と類比的に理解しているからである。
この世界に神の力が及ばない場所はない。そして、政治の力は神の力と同じものであるべきなので、人間の生活全てに政治的な権力が行き渡っていなければならない。そういうふうに権力の絶対化が進んだ末に、個人のあらゆる発言を政治的なものとみなすような、精神的な風土ができあがる。このような、政治の絶対化という極端な思想が一方にはある。
そのような状況の中から、あらゆる場面において表現の自由が保障されるべきだ、というもう一つの極端な思想が出てくる。
政治の絶対化と表現の自由という二つの思想は、互いに正反対のように見えるが、個人の生活すべてが政治的である、と考える点では同じものであり、どちらも同様に窮屈な思想である。
現実には、政治的な発言もあれば、政治的でない発言もある。政治的でない発言も政治的である、というのは一種の詭弁であって、そのような理屈が許されるのであれば、男でないものも男であることになるだろう。そんな詭弁を許してしまったら、まともな議論はできなくなる。
一般的に言って、表現の自由は許されない。すべての人間は、言葉の使い方に注意しなければならない。ただし、政治家が不正をしているならば、それを暴く権利は誰にでもあるし、それを妨害することは許されるべきではない。
しかし、そんなことは当たり前のことであって、わざわざ表現の自由などという大げさな言葉で強調する必要もない。ヨーロッパという道徳が退廃した世界では必要な概念だったのだろうが、もともと日本には必要のない言葉である。
「大道廃れて仁義あり」とは、こういうことを言うのだろう。表現の自由がもてはやされる社会は、すでに手遅れである。