1
ひきこもりの問題が示しているのは、この社会の構造である。
現代社会の構造を支えているのは、ただ一つ家庭だけである。人間はどこまで行っても家族から自由になることはできず、家族関係の中にとらわれ続けるしかない。戦前であれば、軍隊生活というものが、ある程度は社会の構造を支えていた。多くの人間が軍隊での生活を経験し、そこでの人間関係が社会的なつながりを作り出していた。その強度は、家族のつながりと比べても弱くはなかっただろう。
しかし現代では、家族のつながりが、他の何とも比べようがないくらい強くなってしまっている。そのために、個人が抱えるあらゆる問題が、家族の問題として捉えられてしまうのである。それは不幸なことである。
これは国家の形に関わる問題である。近代国家の根本には血縁関係がある。家族関係を基本として国家が形作られている。しかし、人間が作りうる関係はそれだけではない。職業によるつながりや、学問によるつながりなど、様々なつながりがありうる。そして、それらはすべて、家族関係に代わりうるものである。社会の構造は、必ずしも家族が基本でなければならないわけではない。
ひきこもりのように、家庭内の問題と考えられているものの一部は、実際には近代国家の歪みの現れである。我々は、性愛が人間の本質である、という考えから距離をとらねばならない。
2
ひきこもりの子どもが気に入らないならば、家から追い出して縁を切ればよい。しかし、それで子どもがホームレスにでもなって、ホームレスはよくないからということで、市役所に捕まって家族のところに送り帰されたりすると、元の木阿弥である。このように考えると、すべての人間は必ずどこかの家族に属していなければならない、という現代社会の構造に問題があることが分かる。
ひきこもりは悪いことではない。悪いことは何一つしていない。もしも、ひきこもりの子どもを殺す親がいたならば、百パーセント親が悪い。
3
西洋人は、家族関係を絶対的なものと考えている。しかし、そう考えなければならない理由はない。なぜならば、人間は、一度生まれてしまえば、それ以上家族を必要としないからである。自由にどこからでもスタートしてよい。
これは、そうあるべきだ、ということではなく、実際にそうである、という話である。人間は家族関係の中にあり続けるべきだ、という意見はありうるが、それは願望に過ぎないし、そうすべき理由もない。そうでなくても人間は生きてゆける。
性的マイノリティが問題とされるのは、家族を絶対視するような文脈においてだけだろう。それは、性愛を絶対視する文脈と言うこともできる。人間は性的なものであらねばならない、と考えるから、その例外と見えるものに過剰に反応する。人間は必ずしも性的なものではない、ということが分かれば、そのような問題は消えてしまうだろう。
西洋人は性にこだわり、家族にこだわる。彼らには、家族にとらわれない人間が想像できない。性的欲求にとらわれない人間が想像できない。それは、彼らが仏教を知らないからである。
キリスト教は、彼らの家族に対する考え方を、一つの神話に仕立て上げたものである。彼らは神の話をするとき、実際には家族の話をしている。それを大げさな表現で言い換えているだけである。
キリスト教とは家族への信仰である。そこには宗教的な要素は一切認められない。理性も理想もない、幼児の宗教である。
4
私は、ヨーロッパ文明を観察し尽くし、蒸発させてしまいたい。これほど不愉快でおぞましいものは他に見たことがない。しかしおそらく、私以上にその本質を理解している人間もいないだろう。
私には伯夷と叔斉の気持ちがよく分かる。見たくないものは見ないほうがいい。見ないで済むならそれが一番いい。
私は、私より後に生きる人々が、西洋の歴史や学問を学ばないで済むようにしたい。誰もヨーロッパを知らない世界を作りたい。それが私の願いである。