人間精神についての簡単な解説

自由意志が存在しないのだとすれば、物質としての人間がどうして精神を持ちうるのか、という問いに答えねばならない。

ここで我々は、他人の精神をどのようにして知るのか、ということを考える必要がある。そうすると、それは他人の行動や言葉を通して知られる、ということが分かる。あの人は賢い、愚かだ、親切だ、ケチだ、といった性格は、彼の行動から推し量られるものであって、そこに精神が現れるわけである。したがって、精神について知るということは、行動について知ることだと言える。

もちろんこれでは、人間がどうして精神を持っているように見えるのか、という問いに対する答えにしかなっていない。しかし、原理的にそれで十分である。なぜならば、仮に精神なるものが存在したとしても、それを知る手段が存在しないからである。精神について知りうるすべての性質を知る手段があるのならば、それ以上精神について知るべきことはない、と言える。

直接知ることができない、ということが精神の定義であるならば、それを直接知る手段がないのは当然である。間接的にでもそれを知りうるのであれば、その存在について疑問の余地はない。

近代哲学には直接経験というおかしな概念があって、これはどうも、直接経験できるものしか真実とは言えない、という考えであるらしい。それで、他人の精神を直接知覚することはできないから、それは存在するとは言えないのだ、という結論になる。まことに奇妙な議論である。

彼の主張が正しいとするならば、百合の花は存在しないことになる。なぜならば、我々が知覚するのは白という色であって、花そのものではないからである。だからといって、百合の花は存在しない、ということにはならない。それはナンセンスである。同様に、我々には他人の体の動きしか見えないから、精神は存在しない、ということにはならない。白という色から花の存在を知ることができるように、表面に現れるものから精神を知ることはできる。

参考リンク

精神の本質

タイトルとURLをコピーしました