婦人の仁

男女の差異

中国に「婦人の仁、匹夫の勇」という言葉がある。これをもって儒教は女性差別的だという人がいる。しかし、女性が軽薄で無責任なのは事実であり、それは現在も変わっていない。自己中心的な人間が政治を行うことは社会の不利益にしかならないので、私は、女性は政治家になるべきではないと思う。

そもそも、男女の性質は異なる。人間とチンパンジーの遺伝子は99%同じであり、違いは1%しかないと言われる。一方で、男と女は染色体一本丸々違う。ゆえに、男女の遺伝情報の差異は1/46、およそ2%もあることになる。これは人間とチンパンジーの差異より大きく、男と女が全く別の生き物であることを示している。

遺伝子はともかくとして、体が違えば心が違うのは当たり前である。象には長い鼻があって、彼らはそれを巧みに動かす。だが我々には、鼻を動かすのがどういう感覚なのかまるで分らない。象の心には鼻を動かす部分があり、人間の心には鼻を動かす部分がない。ゆえに、人間の心と象の心は異なると言える。どういうことかというと、体が違えば心も違う。男と女は体のつくりが異なっているのだから、その分、心のつくりが異なるのも当然である。

ついでに言えば、トランスジェンダーという概念は男女の差異を前提にしている。というのも、男の心と女の心が全く同じものであれば、男の体を持ちながら女の心を持っている人間と、男の体を持ちながら男の心を持っている人間を区別することはできないからである。男女の心が異なっているからこそ、トランスジェンダーという概念が成り立つ。心も体も異なるのに、一体何が平等なのか。

女の怒り

男女は平等ではない。これは単なる事実である。これを否定するならば、フェミニズムはただの嘘になってしまう。

むかしイザナギとイザナミという夫婦の神様がいた。妻のほうが先に死に、夫は妻に会うために黄泉の国へと降りていった。夫婦は無事再開したが、妻は醜くなった自分の姿を見ないでほしいと夫に頼んだ。イザナギは承諾したが、好奇心に負けてイザナミの姿を覗き見てしまった。そこにあったのは蛆が湧いた醜い死体だった。姿を見られたことに気づいたイザナミは烈火のごとく怒りだした、という話である。

本当の姿を見られて怒る。本当のことを言われて怒る。男女平等という嘘を暴かれたときの女性たちの怒り方は、まさにイザナミそのものである。森喜朗氏が袋叩きにあったのは、王様は裸だと言ってしまったからである。フェミニストは裸の王様にすぎない。

女らしさ・男らしさ

男女には性質の違いがある。一般的に言って、女は自己認識が下手である。尊大で恥を知らず、自己主張が激しい。一方、男は謙虚で控えめ、自分の立場をよく弁えている。そのぶん諦めが早く、卑屈になりやすい。こういう生まれつきの違いはたしかにある。

女らしさとは恥じらいである。女性はもともと恥を知らないので、女らしくしろと言う。男らしさとは勇敢さである。男性はもともと度胸がないので、男らしくしろと言う。自分に足りないものを意志の力で補うことで、人間としてのバランスがとれる。それが文化の力である。

男と女のどちらが優れているかは分からないが、男には女にない長所がある。それは、自分の間違いに気付けることである。それが学びのきっかけとなる。女はなかなか自分の間違いに気付けない。間違いを指摘されると怒り出すからである。

問題は、いまの日本の文化風土が、女性の自己中心的な生き方を肯定していることである。何をやろうが自分の自由で、他人のことなど考えなくてよい、という自由思想は女性の生き方と相性が良い。本当は、社会のために自分のことは我慢をする、という考え方も必要なのだが、そういった言葉は抑圧的だとして排除されてしまう。その結果、思いやりのない社会が出来上がってしまった。

仁とは何か、と問われた孔子は、己の欲せざるところを人に施すことなかれ、と答えた。フェミニストはこの言葉も否定してしまうのだろう。あらゆる倫理を否定した先に女の楽園が出来上がった。貧しい社会である。

フェミニズムは社会を改善するか

最近では男女格差指数なるものがあって、それによれば日本は世界120位だという。どうやら、日本には女性の政治家や社長が少ないということらしい。だが、そんなことに何の意味があるのか。

そもそも日本の主権者は国民であり、国民の数は男女半々なのだから、男女は平等である。政治家はこの国の為政者ではないので、彼らの中に女性が多かろうが少なかろうが問題はない。計測する対象を間違っているのではないか。

一般に、男女は平等であるべきだ、という考えは、男女は実際に平等である、という考えに基づいている。男女の間には本来何の違いもないのだから、社会において平等な扱いを受けるべきだ、という思想である。その出発点が間違っていることはすでに指摘した。

たとえば豊臣秀吉は北政所の尻に敷かれていた。どんな権力者でも女に逆らえないのであれば、女のほうが強いと言える。べつに女が太閤になる必要はない。女が太閤をコントロールできれば、それで済む話である。

男女の平等が実現できれば、女性の地位が向上し、女性にとって生きやすい社会が実現する、という保証はない。そもそも男女は異なるのだから、男女の平等を実現することは誰のためにもならない。不毛な努力である。

フェミニストは、社会が人間の力によって作られるものであることを無視している。彼らはなぜ、社会をすでにあるもののように考えるのだろう。それは自分たちが作らねばならないものなのに。傍観者のように社会を批判するだけというのは、あまりに無責任である。自分たちは尊重されるべきだ、という主張以外に、この社会をどうしたいのか、という理想を示さねばならない。

女性の政治家が男性と同じくらいに増えれば、社会がよくなるという保証はない。たとえば消費増税と男女格差は無関係であろう。女性の政治家が増えれば消費税がゼロになるというなら、もっと増やすべきだと思うが。女性の政治家が増えることは、女性にとっては得なのかもしれないが、社会全体にとってどんないい結果があるのか。

女性たちにはこの国の為政者として、もっと責任を持ってもらいたい。自分のことだけでなく、他人のことも考えられるようになってほしい。

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