7. マレー作戦
さて、戦場に戻ろう。日本軍は真珠湾攻撃と同時に、イギリス領マレー、アメリカ領フィリピン等の攻略を開始した。これらを総称して南方作戦と呼ぶ。
開戦に先立って、日本はフランス領インドシナを占領していた。というのも、当時フランスはドイツに占領されており、ドイツと同盟関係にあった日本は、武力を行使せずにフランスの植民地を手に入れることができたのである。現在でいえば、ベトナム、ラオス、カンボジアを合わせた地域に相当する。ここが南方作戦における日本軍の拠点となった。
イギリス領マレーの守備力は陸軍約9万、航空機158、海軍は戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルス、そして駆逐艦4隻の計6隻からなる東洋艦隊を擁していた。本当はここに空母インドミタブルが加わるはずだったが、ジャマイカで座礁したため参加できなかった。
一方、寄せ手の日本軍は陸軍約7万、航空機617、海軍は重巡5、軽巡3、駆逐15、潜水16、水上機母艦1からなる南遣艦隊が作戦に参加した。陸軍第25軍を率いたのは山下奉文中将、南遣艦隊を率いたのは小沢治三郎中将だった。
マレー作戦は、日本陸軍の奇襲上陸によって幕を開けた。ひそかに海南島を発した第25軍先遣部隊は、日本時間1941年12月8日未明、マレー半島北部に上陸を開始した。
最も早かったのは第18師団の佗美支隊で、日本時間12月8日午前1時30分、つまり真珠湾攻撃の2時間前に、タイ国境に近いコタバル沿岸に上陸を始めた。彼らは奇襲に失敗、上陸前に敵部隊に発見され、水際で激しい抵抗を受けた。支隊の主力は3個大隊からなる歩兵第56連隊だったが、激戦のなか大隊長2人までが死亡、ようやく敵陣を制したのは8日正午のことだった。休む間もなく同日夜に近郊の飛行場を制圧し、翌9日にはコタバル市の占領を終えた。その後、周辺を制圧してから16日に南進を開始、大晦日には半島南部の要衝クアンタンに到達し、単独でこれを攻略した。当初の予定では、クアンタン攻略のために歩兵第55連隊を上陸させるつもりだったが、佗美支隊の活躍によって取りやめとなった。彼らはそこから西に向かい、脊梁山脈を越えて第25軍主力と合流している。
佗美支隊の任務はマレー半島東部の敵拠点を制圧することだったが、第25軍の主目的は、半島西部の幹線道路を南下し、シンガポールを背後から攻め落とすことにあった。
12月8日午前3時40分、第5師団主力はタイ領シンゴラへの上陸を開始した。中立国の海岸だったため、敵の迎撃はなく、無傷で上陸できた。先鋒の佐伯部隊は10日未明に国境地帯の敵陣地を突破、11日にはインド第11師団が守る防御線ジットラ・ラインに到達した。守兵の兵力6000、戦車大砲多数に対して、攻め手はわずか600名だったが、佐伯部隊はひるまず猛攻撃を仕掛けた。翌12日には援軍も到着し、攻撃を続けるうちに敵は退却してしまった。イギリス軍は、ジットラ・ラインで三ヶ月は敵を足止めできると考えていたが、たった一日で突破されてしまったのである。これによって半島西部への道が開け、13日には西海岸のアロルスター市と飛行場を制圧、ここに司令部を置いた。
開戦と同時に陸海軍の航空部隊も撃滅戦を開始、2日間で敵機110を破壊して、マレー北部の制空権をほぼ獲得した。その結果、イギリス空軍は海軍の援護すら満足に行えなくなってしまった。
12月8日、日本軍上陸の知らせを受け取ると、イギリス東洋艦隊はシンガポールを出港、マレー沖を北上して上陸船団の襲撃に向かった。空軍に援護を要請したが拒否され、航空援護なしの出撃を余儀なくされた。
12月10日、東洋艦隊は日本海軍第一航空部隊に補足され、合計85機の攻撃隊から機雷と爆弾による攻撃を受けた。巡洋戦艦レパルスには魚雷5本、爆弾1発が命中し、午後2時3分沈没、戦艦プリンス・オブ・ウェールズには魚雷6本、爆弾1発が命中し、午後2時50分に沈没した。
当然のことながら、友軍であるアメリカ軍は戦場に姿を見せなかった。イギリス海軍は孤独に戦い、そして散った。これによって、日本軍はマレー半島の制海権を獲得したのである。
第5師団にやや遅れて、12月23日ごろ近衛師団がアロルスターの軍司令部に到着した。第5、近衛師団ともに機械化されており、その快足をもって一気に半島を南下するつもりだった。第5師団が街道をまっすぐ進む一方、近衛師団は海岸沿いを南下し、ときには舟艇機動を駆使しながら敵の背後に回り込み、その逃げ場を断った。両師団は互いに連携して敵部隊を撃破し、進軍を続けた。
途中スリム付近は長い隘路になっており、敵は強固な防御陣地を築いて日本軍を待ち構えていた。日本軍は1942年1月5日に敵と接触、全軍ここで足止めされるかと思われたが、戦車第6連隊第4中隊長の島田少佐が夜襲を提案、6日夜11時すぎに戦車部隊を率いて敵陣に正面から突っ込み、6キロにわたる陣地帯を一気に突破した。戦車による夜襲という常軌を逸した戦法が、相手の虚を突いたのである。
その後も順調に進撃を続け、1942年1月31日、第25軍はついにマレー半島南端に到達した。1100キロの道のりを、熱暑のなか敵と戦いながら、わずか55日で踏破したことになる。まさに鬼神のごとき快進撃であった。
マレー半島の先には、幅1キロの海峡を挟んで、シンガポール島が浮かんでいる。この島は多数の砲門によって守られる要塞だったが、砲門はほとんど外海を向いており、半島側からの攻撃には無防備だった。その弱点を突くために、日本軍はわざわざ半島を縦断してきたのだ。
2月9日、日本軍はシンガポール攻略を開始した。が、じつはその数日前から、近衛師団が陽動作戦を行い、島の東側に守備隊を引き付けていた。その隙に第5、18師団が西側からシンガポールに上陸し、突撃を開始した。11日には市街地の背後にあるブキテマ高地を占領したが、敵の抵抗はすさまじく、15日には日本軍の砲弾が不足して、攻撃中断もやむなしかと思われた。しかし同日午後1時に敵の軍使が到来し、降伏を申し出た。シンガポール市街は飲み水が不足し、これ以上の籠城は不可能という判断だった。午後7時、司令官パーシバル大将が山下中将と会談し、降伏文書に署名した。1942年2月15日、作戦開始から70日目にマレー作戦は終了した。
マレー作戦は、南方作戦全体のかなめと言えるものだった。というのも、シンガポールには巨大な海軍基地があり、連合軍がここに立てこもって抵抗を始めたならば、南方作戦全体が危機に瀕する可能性があったからである。そのため、できるだけ速やかにシンガポールを奪取せねばならなかった。
第25軍はよくその期待に応え、短期間で攻略を終えた。それは当然、将兵の奮闘あってのことではあるが、同時にイギリスの命運が尽きかけていたことの証拠でもあった。シンガポールの陥落とともに、イギリス東洋支配300年の歴史は幕を下ろしたのである。
8. 蘭印作戦
日本は開戦と同時にマレー、フィリピンの攻略を開始し、大きな戦果を上げていた。マレー半島の制圧は首尾よく終わり、フィリピンでは、バターン半島に立てこもった米軍が抵抗を続けていたが、すでに首都は制圧され、制海権・制空権ともに日本の手中にあった。
このような状況のもと、1942年1月11日にオランダ領東インド(現インドネシア、蘭印と略す)の攻略が開始された。蘭印作戦は、今村均中将の陸軍第16軍と、高橋伊望中将の海軍蘭印部隊の緊密な連携のもとで実行された。
この日、海軍陸戦隊がセレベス島北部のメナドに上陸し、周辺の飛行場に海軍空挺部隊が日本初の落下傘降下を実施した。彼らは同日中に飛行場を占領し、翌日には周辺地域の制圧を終えた。同じく11日、第16軍の坂口支隊がボルネオ島部タラカンへ上陸を開始、翌日にはこれを占領した。同支隊はその後、ボルネオ各地を制圧しつつ南下し、ジャワ島へ向かった。
日本軍が上陸したタラカン、メナドともに郊外に飛行場があり、これを確保することも目的の一つだった。そもそも、蘭印は領土が広大なため、一か所の航空基地で全土をカバーすることができない。そのため、各地の飛行場を占領し、そこに航空隊を進出させることが戦略上の要点となった。
このあと日本軍は飛行場を求めて、1月24日にアンボン、2月3日にケンダリーを占領し、さらに2月21日にはチモール島に進出した。これによってオーストラリアとの連絡を絶ち、ジャワ島を孤立させることができた。日本軍はボルネオ、セレベス、チモールと、ジャワ島の東に位置する島々を占領しつつ、同時に西にあるスマトラ島を占領、蘭印の中心地であるジャワを包囲する態勢を整えた。
ジャワ島の攻略も重要だったが、本作戦最大の目標は油田であった。蘭印は石油の一大産地であり、石油の禁輸措置を受けていた日本にとっては、その確保が死活問題となった。なかでもスマトラ島のパレンバンには蘭印最大の精油所があり、これを無傷で確保するために、陸軍の空挺部隊が活躍した。いわゆる「空の神兵」である。
2月14日午前11時ごろ、輸送機から飛び出した300名の隊員たちは、落下傘を開いてパレンバン周辺の湿地帯やジャングルに降下した。着地地点はバラバラだったため、各自味方と合流しながら精油所へ向かった。このとき小集団で守備隊と出くわす場面も多く、20人の守備隊に包囲されながら、たった1人で敵8人を倒して自害した軍曹の話や、500人からなる敵装甲車部隊を5人の隊員が撃退した話など、数々の武勇伝が生まれた。こうした隊員たちの奮闘によって、同日深夜にはパレンバン精油所の確保が完了した。精油所は一部破壊されていたものの、4月21日には修理を終え、操業を再開した。
彼らはその後、ムシ河を遡行してきた第38師団と合流し、パレンバン市街を制圧、そこから南下して、20日にはスマトラ南部の飛行場を占領し、ジャワ攻略の準備を整えた。
さて、ジャワ島守備隊の戦力は、ABDA(アメリカ、イギリス、オランダ、オーストラリア)連合軍約8万、海軍力は重巡2隻、軽巡3隻、駆逐艦9隻。一方、日本側の戦力は、第16軍約4万と、重巡2隻、軽巡2隻、駆逐艦14隻であった。
2月27日、ABDA艦隊は日本の輸送船団を襲撃しようとしたが、ジャワ島東部のスラバヤ沖で日本艦隊に補足され、戦闘が始まった。日本側は駆逐艦1隻が中破したものの、敵軽巡2隻、駆逐艦2隻を撃沈し、重巡1隻を中破させる戦果を上げた。
3月1日、ABDA艦隊の生き残りは、ジャワ西部のバタビア沖で再び日本船団へ攻撃を仕掛けた。応戦した日本艦隊は敵重巡1隻、軽巡1隻を撃沈するも、魚雷の誤射で味方輸送船1隻が沈没、3隻が大破してしまった。幸い上陸部隊に大きな損害はなかったが、司令官の今村中将が海上に投げ出され、3時間も重油の中を泳ぐはめになった。彼は戦後になるまで、それが味方の誤射によるものだと知らなかったらしい。
この3月1日、第2師団がジャワ西部に、東海林支隊がジャワ中部に、第48師団と坂口支隊がジャワ島部にそれぞれ上陸し、作戦を開始した。蘭印守備隊は兵力では上回っていたものの、日本軍の快進撃の前になすすべなく、早くも3月9日に全面降伏した。
このように順調に作戦が進んだのは、オランダからの独立を望んでいた現地の人々が、日本軍に積極的に協力したためであった。その後の占領統治においても、住民の協力によって第16軍は優れた成果を収めることができた。
今村中将は軍政を始めてすぐに、東部スマトラに監禁されていた独立運動の指導者スカルノらを開放し、自由な活動を許した。彼の占領政策は寛容を旨とするものであり、他の日本軍占領地域の方針とは全く異なっていた。戦後、軍司令官が各々その占領地で処刑されるなかで、ひとり今村だけは死刑をまぬがれた。それは、彼の善政が住民を心服させた証拠である。
蘭印戦がかくも上手くいった軍事上の理由は、敵の準備が整う前に、日本軍の攻勢が始まったことである。マレー、フィリピン攻略が上首尾に終わったことを受けて、日本軍は日程を繰り上げて蘭印の攻略を始めた。それによって、ジャワ島に援軍が到着する前に攻撃を始め、日本側の損害を抑えつつ、速やかに攻略を終えることができた。
また、マレー沖海戦でイギリスの戦艦2隻を撃沈したことも大きかった。もしもジャワ近海に敵戦艦が姿を現したならば、蘭印作戦は大幅な変更を余儀なくされただろう。時代遅れだったとはいえ、やはり戦艦の防御力と破壊力は脅威であり、日本海軍が真珠湾で米戦艦8隻を、マレー沖で英戦艦2隻を葬り、作戦海域からすべての戦艦を排除したことは、南方作戦を成功に導いた最大の要因だったと言える。