亜米利加物語 第三回

9. フィリピン作戦

アメリカ領フィリピンは、アメリカの極東における軍事拠点となっていたので、蘭印で産出された石油を日本まで安全に運ぶためには、この米軍拠点を潰しておかねばならなかった。かくしてフィリピン作戦が実行されたのである。

攻略の壁となったのは、アメリカ極東空軍の有する爆撃部隊であった。当時フィリピンには、B-17戦略爆撃機35機を中心として、約200機の航空戦力があった。一方、日本はこの戦いに、海軍第11航空艦隊308機と陸軍第5飛行集団192機を投入した。ただし陸軍機は航続距離が短く、台湾基地とルソン島を往復するだけで燃料を消費してしまい、十分な戦闘時間が確保できなかった。そのため、初日の航空撃滅戦の主役となったのは、海軍の航空部隊だった。

1941年12月8日午前9時、霧が晴れるのを待って、海軍の攻撃隊は台湾を飛び立った。部隊がクラークフィールド飛行場の上空に到達すると、地上にはB-17以下の主力機がずらりと並んでいた。日本軍の空襲を避けるために上空に退避していた米軍機が、ちょうど地上に降りてきた瞬間であった。爆撃隊はこれを狙い撃ちし、「B-17」18機を含む100機近くを撃破した。これによって敵兵力は半減し、航空撃滅戦は事実上一日で勝負が決まってしまった。これは真珠湾攻撃、マレー沖海戦と並ぶ緒戦の華であり、フィリピン戦の勝敗を決する大戦果だった。

12月10日、陸軍の田中支隊がルソン島北部のアバリに、管野支隊が北西部のビガンに上陸し、周辺の飛行場を占領した。さらに12日には木村支隊がルソン島南端のレガスピーに上陸し飛行場を占領、また20日にはミンダナオ島のダバオに三浦支隊と坂口支隊が上陸して、飛行場を占領した。こうして日本軍はフィリピン北部、中部、南部に飛行場を確保し、味方航空隊を進出させて、制空権を掌握した。

航空支援の準備が整ったので、同22日、上陸作戦が開始された。フィリピン攻略を担当したのは、少将本間雅晴率いる第14軍であった。同軍主力の第48師団および上島支隊はこの日、ルソン島中部のリンガエン湾に上陸を開始した。波高2メートルに達する悪天候のなか上陸を強行したため、湾を守る敵部隊との苦戦が予想されたが、先に上陸していた田中支隊の援護が間に合い、なんとか敵を排除して海岸部を確保することができた。部隊は陣容を整えたのち、首都マニラに向かって南下を始めた。

次いで24日には、第16師団がルソン島南部のラモン湾に上陸し、北上してマニラに向かった。二つの部隊が南北からマニラに攻め寄せ、これを挟撃するつもりだった。しかし、1942年1月2日に両部隊がマニラに入城すると、そこはすでにもぬけの殻だった。アメリカ軍はすでにバターン半島への撤退を開始しており、日本軍は追撃の機会を逸した。首都マニラの制圧によって、フィリピン作戦の戦略目標は達成されたが、あとにはバターンをどう処理するかという問題が残されたのである。

バターン半島に立てこもった守備隊の兵力は約8万、対する第14軍の兵力は約4万だった。しかも1月1日には主力の第48師団に蘭印への転戦命令が下され、兵力はさらに低下した。はじめ第14軍はバターン籠城戦力を甘く見て、1月9日から攻撃を開始するも、敵の砲火に阻まれ前進できず、かえって大きな損害を出してしまう。アメリカ軍はあらかじめバターン半島に防御陣地を構築し、ここに立てこもる作戦を立てていたのである。ただ日本軍としては、バターン半島の入り口を封鎖し、また海上封鎖を行えば、米軍の動きを封じることができるので、これを攻略する必要はなかった。

戦略上の必要はなかったが、フィリピンいまだ健在なり、日本軍破れたり、という連合国側の宣伝が日に日にやかましくなり、しまいには日本国民までもがフィリピン戦のゆくえを案じるようになってしまった。こうなると軍の面子が立たないので、大本営は方針を転換し、バターン半島攻略のために増援を送ることにした。その内訳は、大本営予備の第4師団に加えて、独立山砲兵第3連隊、重砲兵第1連隊、独立重砲兵第2中隊、独立臼砲第2大隊、独立臼砲第14大隊等の砲兵隊と、さらに陸軍航空部隊から重爆部隊の飛行第60、第62戦隊が派遣された。

この大幅に強化された砲爆撃力をもって、第14軍は4月3日からバターン半島の攻略を再開した。日本軍の火力は敵を圧倒し、5日には敵の主陣地を突破、9日には司令官キング少将が投降し、同地における戦闘は終了した。

このときバターン半島では7万5千人の捕虜が発生し、日本軍は彼らを60キロ離れたサンフェルナンドまで徒歩で移動させた。いわゆる「バターン死の行進」であるが、そもそも日本側には十分な輸送車両がなく、また食料も不足していたので、仕方ない処置ではあった。むしろ、フィリピン守備隊すべてをバターン半島に集めて籠城戦を始めたマッカーサー将軍にこそ、非があると言えるだろう。日本軍だけでなく、アメリカ軍にも補給の観念が欠けていたことが分かる。

このあと日本軍は、マニラ湾口に浮かぶコレヒドール島以下4島の攻略にとりかかった。これらの島々は多数の大砲を具えた要塞となっており、これに対する日本軍も多数の大砲をそろえ、4月14日から両軍の打ち合いが始まった。

砲撃戦は断続的に続き、5月7日、ついに第4師団がコレヒドール島を占領、他3島も同日中に占領を終えた。だが、アメリカ極東陸軍総司令官だったマッカーサー大将はすでにオーストラリアへ逃がれており、彼の代わりにウェインライト中将が日本軍の捕虜となったのである。

バターン半島におけるアメリカ軍の抵抗は、敵味方双方を苦しめただけで、何の戦略的価値も持たなかった。これはただ負けないための戦いであり、その先に明確な目標があったわけではない。これも人道に対する罪の一種であろう。

10. ビルマ作戦

南方作戦の最後を飾るのはビルマ戦である。当時、日本軍が南方作戦に割ける戦力は11個師団しかなく、マレー、フィリピンと同時にビルマの攻略を行うことはできなかった。そのため、開戦から1か月後の1942年1月中旬に、ようやく作戦が開始されることとなった。

ビルマ攻略を担当したのは飯田祥二郎中将の第15軍であったが、作戦開始時の戦力は第33、第55の2個師団のみで、そのうえ両師団とも1個連隊を他の戦場に派遣しており、実質1個師強、約2万の戦力しかなかった。航空隊は第5飛行集団が参加、のち第3飛行集団が加わり、最終的に400機近い戦力となった。

一方、ビルマを守るイギリス軍の兵力は約3万、そこに続々と増援が到着しつつあり、加えて中国軍約10万が参戦する手はずになっていた。開戦時の空軍戦力はわずか37機だったが、途中でアメリカ義勇空軍44機が加わり、さらに3月には150機の増援を受けた。

イギリスはインドからほとんど無尽蔵に増援を送ることができたので、日本軍はそれらが到着する前に決着をつけねばならなかった。航空戦に関しては、終始日本がリードし、イギリス軍はついに制空権を奪い返すことができなかった。

第15軍は、タイからシャン山脈を越えてビルマに侵入した。イギリス政府はシンガポールの重要性を高めるために、あえてビルマ・タイ間に鉄路や道路を敷設していなかった。そのため、第33師団は道なき道を進まねばならず、象の足跡を辿りながら1月18日夜半にビルマ国境を突破した。彼らはその後、山脈を越えて大砲を運び入れるための自動車道の建設に従事し、約一か月後に完成させた。それまでの間、日本軍は大砲なしで戦わねばならなかった。

第55師団は1月20日に国境を越え、敵を排除しながらサルウィン河口の街モールメンへ向った。1月28日午後8時、部隊は二手に分かれて東と南からモールメンへの攻撃を開始した。火砲のない日本軍は多数の犠牲者を出したが、31日未明に市街地に突入し、英軍は敗走した。この戦いでは、日本の騎兵隊が大いに活躍したという。

同じころ、第33師団はサルウィン河上流のパアンに向かっていた。パアンの守備隊にはM3戦車が配置されていたが、その分厚い装甲は日本軍の大砲をことごとく弾き返してしまい、全く歯が立たなかった。そこで原田連隊は敵の背面に進出すると、2月4日午前4時、夜襲を仕掛けて敵を混乱に陥れた。そのまま敵将を生け捕り、さらに勢いに乗じてパアン市を制圧すると、ただちにサルウィン河を渡って首都ラングーンのある西へと向かった。

そして2月22日、シッタン河畔で戦いが生じた。ラングーンへと退却を続けるイギリス軍に第33師団が追いつき、側面から迂回してこれを急襲すると、慌てたイギリス軍は2個旅団を東岸に残したまま、シッタン河に掛かる鉄橋を爆破してしまった。橋を渡り終えていたのは1個旅団だけで、取り残された部隊のうち一部は捕虜となり、残りは溺死した。この大損害によって、ラングーンの陥落はほぼ確実となった。

その後シッタン河を渡った日本軍は、ラングーンの北50キロにある仏都ペグーを包囲し、3月5日から7日にわたって激闘を繰り広げたが、その間にイギリス軍はラングーンからの撤退を完了していた。3月8日、日本軍はラングーンを無血で占領し、ビルマ作戦の第一段階は終了した。

日本軍の快速に翻弄されたイギリス軍は、態勢を立て直せないまま退却を続けた。このように、ビルマでは日本のペースで戦いを進めることができたが、それができたのはビルマ人の協力のおかげだった。若者を中心にビルマ独立義勇軍が結成され、様々な形で日本軍を支援した。地理も分からず補給もままならなかった第15軍が戦いを続けられたのは、ビルマ人の独立への熱意に支えられた結果であった。

さて、ラングーンの占領によって日本側の増援部隊である第18、第56師団の上陸が可能となり、3月中旬、第15軍は計4個師団をもってビルマ全土の制圧に乗り出した。ビルマ北部マンダレー付近に展開する敵主力を包囲すべく、第33師は西から、第56師は東から回り込み、第18、第55師団は南から攻め込んだ。

第56師は機械化師団だったため、1日120キロの快足をもって中国軍の中間を突破してこれを分断、さらに敵の背後に回り込んで、4月29日には要衝ラシオを制圧した。ラシオはビルマと雲南をつなぐルートの中間にあたり、退路を断たれる危険を感じた中国軍は、即座に退却を始めた。

一方、西から回り込んだ第33師は、まず4月17日に石油施設のあるエナンジョンを制圧し、そこから北上してイギリス軍のインドへの退路を塞ごうとした。包囲の危険を感じた英軍は退却を開始し、退路を断たれる前にインドへと脱出した。

こうして5月30日には敵軍はすべて排除され、ビルマ全土の制圧が終わった。6月には雨期に入るので、その前に作戦を終えねばならなかった。最終的に日本軍の参戦兵力は3万5千、対して敵は15万の大軍だったから、これを4ヶ月で討伐できたのは大成功と言っていいだろう。ここに南方作戦は終了し、大東亜共栄圏が確立された。

ビルマ戦でよく指摘されるのは、日本軍が何度も敵を包囲しながら、結局は取り逃してしまうことである。イギリス軍は包囲を抜けて無事インドへと脱出し、日本軍はこれにさしたる損害を与えることができなかった。

だが、敵を追い詰めて反撃をくらうよりも、味方の戦力を温存したほうがよい場合もある。一旦ビルマから敵を追い出してしまえば、あとは入り口を固めるだけで防衛が可能となるので、そのための戦力さえ確保すればよい。最小の兵力で広大なビルマを守るためには、このやり方が最善だったのではないか。

イギリス軍は日本軍の勢いに押され、一度撤退してから反撃の機会を伺うつもりだったが、それは最悪の選択だったと言える。もしも植民地を失いたくないなら、彼らは絶対に撤退してはいけなかった。支配者の仕事は国を守ることであり、国を守る能力のない者は、支配者たる資格を失う。つまり、日本軍がビルマを占領した瞬間に、イギリス人は支配者失格の烙印を押されてしまったのである。

もしもイギリス軍が、最後の一兵になるまで日本軍と戦い、ビルマを守り抜いたならば、それだけの覚悟があったならば、ビルマ人はイギリスへの信頼を失わなかったかもしれない。だが、イギリス人はビルマを見捨て、同時にビルマ人もイギリスを見限った。1942年5月、イギリスは永久にビルマを失ったのである。

ゆえに、もしもイギリス政府の目的が植民地を維持することであったならば、この時をもって、彼らは日本に負けたことになる。

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