円安と日本経済の停滞

記録的円安

現在、円安が進行中である。2022年4月28日には1ドル=130円台まで下落した。理由は日米の金利差だという。アメリカは景気が回復したため利上げを行ったが、日本は景気が低迷しているためマイナス金利のままである。ゆえに、ドルを銀行に預けると利息の分だけ額が増えるので、円を売ってドルを買う動きが生じ、円安が進んだ。

ふつう、景気がよいときにはインフレが起き、景気が悪いときにはデフレが起きる。インフレが起きると、中央銀行は景気の過熱を抑えるために金利を上げる。デフレが起きると、景気をよくするために金利を下げる。リーマンショック以降、世界経済全体が不調となり、景気の底上げをするために、各国は低金利政策をとっていた。だが、コロナ禍が明けると世界経済が回復しはじめ、各国は金利を上げる政策をとるようになった。

その中で日本だけは景気の低迷が続いているので、金利を上げることができず、結果として円安になっている。日本はコロナからの回復が遅いこともあるが、それ以上に30年近く日本経済が低迷していることが、円安の根本的な原因だと言われている。

では、なぜ日本経済が復活しないのかというと、イノベーションが起きないからである。この30年、世界ではIT化が進んでいたが、日本の産業はそれに乗り遅れた。アメリカのGoogleやApple、中国のファーウェイやアリババなどは世界的な大企業に成長したが、日本にはそのようなIT企業が生まれなかった。それが日本の経済成長が鈍化した理由である。

日本がとるべき道

さて、ここから先はお決まりの議論で、なぜ日本は成長できないのか、イノベーションが起きないのか、構造改革が必要だ、日本的な雇用や仕事の進め方に問題があるのだ、という自己批判モードに入っていく。

そんな話は聞き飽きた。日本がITブームに乗り遅れたのは事実だ。では、我々は本当にそれに追いつくべきなのか。いまからキャッチアップしたところで、二番煎じ三番煎じにしかならない。それならば、我々自身が新しい技術を生み出すことを考えるべきなのではないか。

どうも私には、いまの経済談義はどこか歪んでいるように見える。なぜ我々はIT化を進めなければならないのか。世界経済の成長がIT産業によって後押しされていることは確かである。だが、何も考えずにそれに乗っかればよい、という話でもないだろう。技術には流行があるので、一度何かのブームが来れば、次は別のブームが来るものである。一つのブームに乗り遅れたからといって、必至にそれに追いつこうとするのは、むしろ危険なことなのではないか。

現状を見る限り、日本人にはIT技術は向いていないので、別の方向に進むべきだと思う。もちろん、昔は我が道を歩んでいたのだが、アメリカの圧力で日本経済の方向がねじまげられたのだ、という意見もあるだろう。いわゆる市場の自由化であり、日米構造協議やプラザ合意である。それが最大の問題だったのかもしれない。

アメリカに気を遣うことなどない。ときどき、アメリカの力が大きすぎるから、日本はそれに逆らえないのだ、と言う人がいるが、そうではない。日本はアメリカや国際社会との協調を重んじているだけだ。アメリカの要求は、結局ただの保身であり利己心でしかないのだが、ひょっとすると彼らは本当に苦しんでいるのかもしれない、助けてやらねば、という義侠心が日本人にはある。そして、それに感謝する義理人情はアメリカ人にはない。彼らはどこまでも恥知らずである。

日本はアメリカを見捨てるべきだ。実際のところ、日本はアメリカに依存していない。むしろアメリカのほうが日本に依存しているのである。

国際社会における西側諸国の立場が保たれているのは、日本が彼らに協力しているからだということに、我々は注意せねばならない。たとえば、2022年4月7日の国連人権理事会でロシアの資格停止を求める決議が行われたが、賛成は93か国、反対・棄権は82か国だった。賛成した国々は主に欧米諸国と、プラス日本である。

欧米の価値観がまがりなりにも世界の標準であるかのように見えているのは、アジアの一員である日本がそれに賛成しているからである。もしも日本がそれを否定する側に回れば、世界のバランスは大きく崩れるだろう。日本が欧米社会にどれだけ大きく貢献しているのか、日本人はもっと自覚するべきである。キャスティングボートを握っているのは我々であり、彼らではない。

ITの本質

日本を含めた先進諸国では、経済格差が急激に広がっている。その原因がIT産業であることについては前に触れたが、ここで改めて考察しよう。

たとえば、ここにCGを製作する会社があったとする。あるとき、その会社は新しいソフトウェアを導入して、それまでと同じクオリティの作品を、それまでの10分の1の時間で作れるようになったとしよう。単純に考えて、それまでと同じ労働時間で10倍の作品数を制作することができるので、売り上げは10倍になり、社員に支払う給料もその分だけ増える。これが、生産性を向上させることで経済が成長する、ということである。

一般に、IT産業には生産性を向上させやすいという特徴がある。なぜならば、そこには現実的な制限がないからである。一方で、農業や漁業、運送業などの仕事は、生産性を向上させることが難しい。なぜならば、それらの仕事は現実のものを相手にしているからである。そのため、彼らの給料は上昇しにくい。保育士の低賃金も問題になりやすいが、子どもを育てる仕事に生産性の向上などあるはずがないので、そうした面での給料の上昇はまったく望めない。

そうすると、生産性を向上させやすい職種では給料が上昇し、向上させにくい職種では給料が変わらないという現象が起きる。このとき、全体としては給料が上昇しているので、それに伴って物価も上昇する。しかし、後者の人々は給料が上昇しないので、相対的に貧しくなってしまう。こうした形で格差が生まれるのではないか。

実際には、そこまでの物価の上昇は起きていないので、この説明は間違っているのだと思う。だが、本当の問題は、必要のない商品の製造によってお金を稼いでいる人々がいるのではないか、ということである。もちろん、この問題はIT産業に限った話ではなく、むかしから人間の経済にはそういう側面があった。スマートフォンのような高額なおもちゃを人に売りつける仕事は、以前であればTVとか絵画とか、あれば便利だし楽しいかもしれないが、無くても別に構わないものの商売と、似たようなものかもしれない。

しかし、IT産業には他の産業と異なる点がある。それが社会全体に行きわたり、社会基盤そのものを作り変えてしまったことである。現代社会はIT技術に大きく依存しており、我々はいまやスマートフォンを持っていないと生活に不便を感じるほどである。

たとえば自動車であれば、それ自身に固有の利便性があるから、みなが必要としたわけである。自動車を使えば遠くまで移動できるし、移動速度もはやい。では、スマートフォンに自動車に匹敵するような利便性があるかといえば、まったくないのである。我々はスマートフォンを持っていないと不便だからそれを持っているだけで、それが便利だから持っているわけではない。それを基準に社会環境が変わってしまったので、仕方なくそれを使っているだけだ。そして、そのような環境に慣らされるうちに、ITに依存しない社会を想像することすらできなくなってしまう。そうした想像力の制限こそがITの本質である。

仕事の意義

現代は能力社会とも言われる。能力のある人は高収入の仕事につけるが、能力のない人は低収入の仕事にしかつけない。その人の能力がそのまま収入に直結するので、負け組と勝ち組がはっきり分かれてしまう、と。

私には、これは能力のない人間が出世する社会にしか見えない。本当のエリートとは社会全体のことを考えられる人間であり、自分の利益だけを考える人間には獣並みの知性しか備わっていない。能力社会ではなく低能社会と呼ぶべきだろう。

人間は社会の中で生きる動物であるから、社会の状態がよくなれば自分の生活もよくなるし、社会の状態が悪くなれば自分の生活も悪くなる。したがって、社会のため人のために働くことで、自分の生活も向上するのである。仕事とは人の役に立つことであり、自分の利益を増やすことを仕事とは言わない。自分を活かすためには、まず人を活かさないといけないのだ。

日本経済を低迷させているのはまさにこの利己主義であり、能力主義である。日本人は仕事の意義を見失っている。

「亜米利加物語」はちょっと息切れしてきたので、ちょこちょこ普通の記事も書いていきたいと思います。

タイトルとURLをコピーしました