三界の狂人

空海が言ったように、世間の人々はみな狂人である。それはどういうことだろうか。

因果律

簡単に言うと、仏の教えとは因果律である。これを聞くとみな、因果律くらいは知っているという顔をするのだが、全く理解できていない。世間の人は因果律というものを、物理現象を意味するものだと考えているが、それだけでなく、人間の心の中で起きる出来事も全て因果律に従っているのである。

例を出そう。5+7はいくつだろうか。

答は12である。おそらくあなたの心の中には、12という数字が浮かんだはずである。その数字を思い浮かべたのは、5+7という質問を見た後であって、質問を見る前ではない。つまり、5+7という質問が原因となって、あなたの心に12という数字が浮かんだわけである。これが心の因果律である。

物理現象だけでなく、人間の心も因果律に支配されている。これが分かるようになったら、かなり上達したと思ってもらっていい。そして人間の心だけでなく、あらゆるものごとの背後には必ず因果関係が存在している。

原因を知る

あらゆる問題には必ず原因がある。ゆえに、その原因を取り除かなければ、問題を解決することはできない。

たとえば温暖化の問題がある。この問題の根本的な原因は、人口の増加と野放図な経済活動である。まず、人口が増加すれば、それだけ二酸化炭素の排出量が増えることは明らかである。次に、自由な経済活動が環境破壊を招いていることも事実である。この二つの原因によって、温暖化は引き起こされている。ゆえに、これらの原因を取り除かなければ、温暖化を解決することはできない。

しかし現代人は、このように原因と結果の関係を考察することができない。結果だけを見て原因を見ようとしないのである。たとえば彼らは、化石燃料を電池に置き換えれば環境問題を解決できる、と考える。だが、電池が環境問題を引き起こすかもしれない、ということにまで考えが及ばない。

電池は環境破壊の最たるものである。作るときにも捨てるときにも環境を破壊する。電気自動車が大量に生産されれば、いずれ大量の電池が廃棄処分されることになる。それが環境問題を引き起こさないという保証はあるのだろうか。二酸化炭素を減らすことだけを考えて、結果として別の環境問題を引き起こしてしまうならば、それは本末転倒である。

燃料電池にも同様の問題があるだろう。私は大学でヘリウムを扱っていたから分かるが、ヘリウムや水素などの小さな分子は、金属分子の間をすり抜けるという性質がある。水素を密閉した金属容器の中に保管しておいても、金属の壁をすり抜けて外に出てしまうのである。そしてその際に、金属分子の結合を破壊して、容器を劣化させてしまう。だから水素を保存する場合には、単に容器に入れるだけではだめで、専用の貯蔵装置を作る必要がある。そのためにどれだけの環境負荷がかかるのか、私はまだ聞いたことがない。

個人的には、水素を燃料として使うのは、あまりいい考えとは思えない。石油ならばポリタンクに保存しておけるのだから、そちらの方が燃料としては優れている。

言葉

このように、現代人は原因を見ずに問題を解決しようとするので、根本的な解決には至らない。現代人が尊重するのは、因果律ではなくルールである。ルールに従うことが善であり、ルールに背くことは悪だと考えている。ではルールとは何かといえば、言葉である。現代社会の特徴は、現実よりも言葉を優先することであろう。

たとえば、男女平等という言葉がある。このHPでもしばしば取り上げる話題で、うんざりしている人もいると思う。しかし重要な問題なので、繰り返し話そう。

西洋人の特徴として、言葉を実体視するという癖がある。彼らは、ある言葉に対応するものが存在する、と考えてしまう。男と女についても同様で、「男」「女」という言葉が存在するからには、それらに対応する実体があるはずだ、と考える。だが、実際に存在するのは一人ひとりの人間であり、男・女というのは、それぞれの人間の性質にすぎない。

私は男だが、たとえばあなたが女だったとしよう。私とあなたは、体格や指の形、腸の長さなど、身体的な特徴は互いに異なるはずである。また、私が今考えていることと、あなたが今考えていることも、互いに異なるはずである。つまり、私とあなたは身体的にも精神的にも互いに異なっているのだから、平等な部分など一つもないと言える。

このように、それぞれの人間は互いに異なっており、その特徴の一つとして男・女という性質がある。そして男と女は、互いに異なる性質なので別の言葉で呼ばれている。ゆえに、男女が平等だということは、1と0が互いに等しいと言うのと同じくらいおかしなことである。もしも男と女が同じものであるならば、それらを区別する必要はないはずである。実際には、それらは別のものなので、別の名前で呼ばれている。したがって、男女が平等だというのは誤りである。

個々の人間から離れたところに、男そのもの、女そのものが存在すると思うから、男女は平等だとか平等でないとか、おかしな議論が生まれてしまう。現実を見れば、そんな議論は無意味だと分かる。個々の人間は互いに異なっており、その性質の一つとして男女があるのだから、男女が互いに異なるのは当然である。このように無意味な議論に膨大な時間を割いている現代人がいかに愚かな存在であるか、考えてほしい。

顛倒・夢想

ルールが因果律よりも尊重される社会というのは、まさに狂人の社会である。ルールとは言葉であり、言葉は人間が作ったものである。一方、現実の世界は因果律にしたがって動いている。ある人が、ルールを尊重するあまりに因果律を無視するならば、彼の望む結果を得ることは絶対にできないだろう。

一つの結果を得るためには、一つの原因を作る必要がある。間違った原因からは間違った結果が生まれ、正しい原因からは正しい結果が生まれる。言葉をいくら工夫したところで、現実の因果関係を変えられるわけではない。

ここに顛倒がある。実際には、すべての言葉は人間が作ったものだが、西洋人にとっては、言葉は神の一部である。ゆえに彼らは、現実よりも言葉を尊重する。因果律よりもルールを優先させる。西洋人は狂っている。彼らはほんとうの理性を知らない。

般若心経に「厭離一切顛倒夢想」という一節がある。「顛倒」「夢想」というのは、現代人の心の状態を表した言葉である。正しいものを間違っていると思い、間違っているものを正しいと思う、これが顛倒である。現実よりも言葉の方が大事だと思う、これが夢想である。顛倒・夢想の人が狂人であり、顛倒・夢想を離れることが正しい道である。

三界の狂人は自分が狂っていることに気づいていない。私はそうした狂人と共に生きることに恐怖を感じている。私は医者である。彼らを治療するための手だてを考えなければならない。どうすればよいだろうか。

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