数ある宗派の中でも、浄土真宗は国内外からの批判にさらされることが多い。彼らは法衣を着ながら酒を飲み、妻をめとる。それで本当に僧侶と言えるのか、本当に仏教なのか、と。今回は浄土真宗について解説したい。
真宗の意義
まず歴史背景から考察しよう。浄土真宗は親鸞が開いた宗派であるが、彼に先行して、師匠の法然が浄土宗を開いていた。しかし仏教界からの激しい批判を受け、法然の宗派は解散させられてしまう。そのとき彼を批判した一人が明恵である。私は、明恵上人こそが、親鸞に真宗開基のきっかけを与えたと考えている。
明恵の法然批判の核となるのは菩提心である。法然は『選択念仏集』において、菩提心よりも念仏の方が大事だ、と述べている。これに対して明恵は、菩提心こそが悟りの種となるものであり、これを否定することは仏教すべてを否定するに等しい、と断じた。客観的に見て明恵の議論には説得力があり、法然がこの批判をかわすためには、自説を撤回しなければならないように思われた。少なくとも、この批判に何らかの答えを出さなければ、浄土宗を続けることはできなかっただろう。
親鸞は批判を真摯に受け止め、これを克服することを目指した。その過程が『教行信証』に詳しく記されている。彼の言わんとすることを要約すれば、次のようになる。
たしかに菩提心は悟りの種であり、これがなければ成仏は不可能である。しかし、人間は生まれながらに菩提心を持っているわけではない。さもなければ、すべての人間が自然に悟りを開くことになり、仏教は必要なくなるだろう。我々は、我々の人生のいずれかの時点で、菩提心を獲得するのである。では、菩提心の原因となるものは何か。誰が我々に菩提心を与えてくれるのか。
それこそが阿弥陀仏である、と親鸞は考えた。我々が念仏を唱えるのは、仏を信じるからではなく、むしろ念仏を唱えることによって、仏への信心が生まれるのである。ゆえに、彼は自然(じねん)を大事にした。何らかの目的をもって念仏を唱えたのでは、その目的に心が向かってしまう。そうではなく、念仏は人の心を仏に向けるためにあるのだから、あらかじめ方向を決めてはいけない。念仏が我々の心を導くままにしなければいけない。
明恵の宗教は、そして従来の日本仏教は、仏を信じる人に向けて教えを説いた。一方、親鸞は、まだ仏を信じていない人に向けて教えを説こうとしたのである。それは非仏教徒のための仏教であり、仏の信仰を世界に広めるための宗派であった。このようにして親鸞は明恵の批判を克服し、浄土宗をさらなる高みに押し上げたのである。
それが衆生教化を目的とするものである以上、浄土真宗の僧侶に求められるのは親しみやすさである。民衆から離れて清浄な生活を送るのではなく、俗世の塵の中で念仏を唱え続けねばならない。ある意味で、真宗の僧侶にとって不浄な生活は義務だと言える。それは怠惰に流れたようにも見えるが、己一人の解脱を求めないという点で他の宗派よりもストイックであり、菩薩道の正道を行くものである。
もちろん、いまの僧侶がどんなつもりでいるかは別の問題である。彼らが親鸞の意図を正しく理解しているかどうか、いささか心許ない。
法蔵菩薩の選択
次に、浄土宗について一般的な解説をしたい。西方極楽浄土の教主は阿弥陀仏であり、彼の御名を十遍でも唱えれば、誰もが死後浄土に生まれるという。阿弥陀仏がまだ仏となる前、修行中の名前を法蔵菩薩といった。法蔵は、自分が仏となった後、実現されるという仏国土について思いを巡らせていた。仏にはそれぞれ固有の世界があるとされる。釈迦牟尼仏には娑婆世界、阿閦仏には妙喜世界というように、仏の性質に応じた国土にそれぞれ生まれることになる。
法蔵は、自分が仏となった後に生まれる世界を、他のどんな世界よりも優れたものにしようと考えた。そこで彼は神通力を使って、あらゆる異世界を一度に見渡した。その中から、それぞれの要素について最も優れた世界を選び出した。たとえば、視覚において最も優れている世界。そこでは見るものすべてが麗しく、心を穏やかにしてくれる。すべてのものが宝石のように輝いているが、決して目が疲れることはない。遠くのものもはっきりと見え、近くのものがぼやけることもない。触覚において優れた世界では、肌に触れるものすべてが柔らかく、決して肌を傷つけない。池の水は冷たすぎず熱すぎず、足を入れるだけで気分が爽快になる。
このように、それぞれの要素について最も優れた世界を選び出し、その優れた部分を合成して、あらゆる並行世界の中で最高の世界を作り上げた。それが極楽浄土であり、その構成方法から明らかなように、どの要素を取ってみても、他のどの世界よりも優れている。まさに極楽の名にふさわしい世界である。
むかしウルトラマンで合成怪獣というのがいた。人気のある怪獣たちの中から、それぞれ一つのパーツを選び出し、それを合成して作った怪獣である。極楽浄土はそれに似ている。世界をカスタマイズするという、ある意味、現代的で数学的な発想である。インド人らしいのかもしれない。
法蔵はその後、極楽浄土を実現するためにどのような修行をすればよいかを考えた。というのも、仏が生まれる仏国土は修業の内容によって変化するからである。ここには原因と結果の関係があり、修行という原因に対して、仏国土という結果がある。ゆえに、適切な修行を行わなければ、望み通りの仏国土を得ることはできない。たとえば、ボディービルダーが望みの身体を作るためにトレーニングメニューを考えるようなものである。腕を鍛えても足が太くなることはない。正しい結果を得るためには正しい修業が必要である。
このように、法蔵菩薩は極楽浄土の設計図を作り、それを実現するために必要な修行を厳選していった。この作業に五劫の時間がかかったとされている。一劫が宇宙の年齢に等しいので、とても長い時間である。その結果、彼は念仏という答えを得た。極楽浄土に生まれるために必要な修行は念仏である。それによって法蔵は極楽浄土を実現し、また同じ修業を行うことで、すべての衆生は極楽に生まれることができる。
法然の著書は『選択本願念仏集』というが、その選択とは、法蔵菩薩が仏国土を選び取り、その修行の方法を選び取る過程を表現したものである。
人が死ぬときは苦しい。眠りにつく時のように静かに死ねるものではない。一人寂しく死んでゆくとき、心の支えとなるのは往生の望みである。ここで死に、次に目が覚めたときには極楽浄土にいる。そう信じることで自らを律し、泰然として死ぬことができる。死が近づいてきたとき、信じられるものがあるかどうか、それが大きな違いになる。