主観的平等と客観的平等

京都に鳳凰堂で有名な平等院という寺院がある。ここでいう「平等」は平等心のことである。

仏教では九品(くほん)といって、衆生を九つに分類することがある。仏の教えを信じない者が下品、仏の教えを信じる者が中品、仏の教えを信じて出家する者が上品である。この三つのそれぞれに上中下があり、合わせて九種類となる。

このように、衆生にはそれぞれの区別がある。しかし、仏陀はそうした区別にこだわらず、すべての衆生を平等に救済しようという心を起こされる。

この平等性は仏陀の心の中にあるのであって、衆生の中にあるのではない。客観的には不平等が存在するが、主観的には対象を平等に扱う。そのように、誰が相手でもえこひいきをしないことを平等心という。

この主観的平等と客観的平等を区別することは重要である。自分が他人を差別しないということと、人の間に区別がないということは同じではない。

最近は男女平等という思想が流行っているが、この思想は主観と客観を混同している。

「相手が男であっても女であっても、それを理由に差別をしない」という心構えを持つことと、

「男と女の間には実際に区別がない」という主張とは、全く別のものである。

男女平等という言葉が前者を意味するうちは問題はないが、後者を意味するようになると危険である。なぜならば、それは単に間違っているからである。

客観的平等は存在しないが、主観的平等は存在しうる。我々は主観的平等、つまり平等心を持ちうるように努力しなければならない。決して客観的平等という誤った思想に陥ってはならない。

このような主客の混同がいつまで続くものか、憂慮に堪えない。

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