歴史と文学

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物語は面白くなければならない。どれほど人に伝えたいことがあっても、話がつまらなければ聞いてもらえない。聞いてもらえなければ、話す価値もない。だから、人に伝える価値がある物語ほど、面白くなければならない。

ゆえに、歴史は最も面白い物語でなければならない。歴史ほど、人に伝える価値のあるものはないからである。それに、どんなに面白いフィクションよりも、現実の方がずっと面白い。歴史をそのままに記述すれば、それ以上に面白い物語はない。

もちろん、そのままに、というのは、当時の記録を一字一句そのままに書き写す、といったことではない。そうではなく、実際に起きたことを書く、ということである。

それを不可能だと考える人もいるかもしれない。それこそフィクションだと言う人もいるだろう。では、そういう人にとって、フィクションではない歴史とは何なのか。我々が利用しうる歴史資料は、すべて人間の手によって残されたものである。そこに記述者の主観が混じっていない、と考えるべき理由があるのだろうか。

歴史を物語にする、ということに異議を唱える人がいる。そういう人は、物語には主観が混じっているという理由で、物語は歴史ではないし、歴史は物語ではない、と考えているのだろう。しかし、どんな資料にも主観が混じっているのであれば、主観が混じらない歴史というものはありえない。それは、物語という形式を取ろうが取るまいが同じことである。そうであるならば、物語は歴史ではない、という主張にも根拠がないことになる。

では、客観的な歴史は果たして可能なのかといえば、もちろん可能である。それは、因果関係を追求することによって可能となる。現実とは原因と結果のつながりである。したがって、因果関係を正確に記述することができるならば、歴史を客観的に記述することも可能になる。そして、因果関係を理解するということは、現実には起きなかったことについて考えるということである。そうした営みによってのみ、客観的な歴史の記述は可能となる。

現実に残された資料をいくら丁寧に調べても、歴史を知ることはできない。客観的な歴史の姿は、現実には起きなかったことを見つめることで捉えられる。それを主観と呼ぶのは勝手であるが、しかし、それ以外の方法で現実に迫ることは決してできない。こうした歴史の記述を否定する者は、全く歴史を知らずに一生を終えることになるだろう。

現実をありのままに記述した歴史が、正しい歴史である。それは不可能ではないし、おそらく物語という形によって、最も正確な表現が可能となるだろう。そして、それは必ず道徳的な教訓を含んでいなければならない。なぜならば、そういう物語が最も面白いからである。本当に面白い物語は、その本質に道徳に訴えるものがある。千年後まで残る物語があるとすれば、そういうものだろう。

歴史を誠実に記述するならば、そこには必ず道徳が現われてくる。それを避けることはできない。なぜならば、道徳とは現実そのものだからである。道徳について語らずに歴史を記述しようとすることは、必ず作為を生む。どうあがいても、それは不自然な歴史になる。

道徳について語ることを恐れてはならない。歴史を記述することは、道徳を記述することである。

2

キリスト教徒は、道徳について語ることを恐れる。なぜならば、自分自身が道徳的でないことを知っているからである。だから、彼らは歴史を記述できない。歴史を正確に記述するならば、道徳が明らかにされてしまうからである。そうなれば、彼らの正体がばれてしまう。そのため、彼らは歴史から道徳を切り離そうとする。それは歴史を無力化する試みであり、彼らの保身である。しかし、道徳抜きに歴史を語ることはできない。ゆえに、現代人は歴史を知らない。歴史というものが存在することすら知らない。歴史の存在そのものを否定しようとする文化の中で生きているからである。

西洋文明は無知の文明である。それは実際、文明ではない。西洋文明は存在しない。なぜなら、それは歴史を持たず、道徳を持たないからである。

3

歴史修正主義の対義語は、釈明主義である。これは、たとえば広島への原爆投下を、何とか理屈をこねて釈明しようとする態度を表現したものである。あれは明らかにただの犯罪だが、アメリカ人は、いまだにあれを必要な行為だったと考えている。それは、彼らが釈明主義史観をとっているからである。

歴史修正主義とは、連合国政府によって作られた、もっともらしい公式の歴史認識を、あくまでも学問的に批判しようとする態度である。その代表はアメリカの歴史学者チャールズ・ビアードだと思う。歴史修正主義を批判する人は、まず彼の本を読んでみてほしい。

最も深刻な歴史認識の隔たりは、日本と韓国や中国との間にあるのではなく、日本とアメリカの間にある、ということを理解するべきである。日本人はこれ以上、アメリカという国家の異常さに目をつぶるべきではない。

我々は、どうして広島と長崎に原爆が落とされたのか、どうしてこれらの都市でなければならなかったのか、どういった議論の末に原爆の投下先が決定されたのか、何も知らない。なぜならば、アメリカ政府がすべての資料を隠しているからである。アメリカは、世界で最悪の秘密国家である。

彼らは、安全保障上の理由から資料を公開できないと言うが、七十年以上も前の資料に、どうして安全保障上の価値があるのだろうか。彼らの言い分は支離滅裂であり、何かを隠そうとしていることは明らかである。それが何であるかは既に述べたので、ここで繰り返すことはしない。日本国民には、アメリカという国家について、もう一度よく考えてみてほしい。

普遍性は歴史においてのみ証明されうる。ある人が普遍を求めるならば、彼は行為によってそれを示さなければならない。やがて歴史がそれを判定するだろう。

西洋文明に普遍性はない。彼らの歴史には例外しか見られないからである。

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