婆子焼庵という公案がある。
あるところに一人の老婆がいた。彼女は信仰心が篤く、庵に住む修行者の世話をしていた。世話を続けるうちに、彼女はその修行者が気に入り、自分の娘と娶せようとした。だが仏道の妨げになるということで、修行者はそれを断った。老婆は怒り、庵に火をつけて修行者ごと燃やしてしまった。
という公案である。だからどうした、という話でもあるが、少し考えてみたい。これはとんちである。とんちなので、必ず答えがある。
まず、頭を柔らかくする必要がある。公案は一種の象徴であって、そこに出てくる言葉を文字通りに捉えてはいけない。それぞれの言葉は、他の何かを象徴しているはずである。
ここでは火が重要である。火は煩悩のたとえとしてよく使われる。ゆえに、最後に修行者が燃やされたということは、彼は煩悩にとらわれ破滅してしまった、ということを意味している。しかし、修行者は結婚の誘惑を断っている。では、いったい彼はどんな煩悩に焼かれてしまったのか。
ここで注目するべきは老婆である。この話における老婆の役割は何か。老婆は、修行者を誘惑する者として現れる。だが、彼女の誘惑は一度だけだっただろうか。
誘惑の一つは分かりやすい。色欲の誘惑、あるいは結婚という世俗的な幸福への誘惑である。しかし、もう一つの誘惑は見逃されやすい。それは、悟りという出世間の幸福への誘惑である。
そもそも、老婆はなぜ修行者の世話を買って出たのか。それは、悟りの功徳にあずかるためである。彼女が世話をした坊主が悟りを開くことになれば、その功徳の一部は彼女自身の上に帰ってくるはずである。つまり、彼女は悟りに執着している。老婆の信仰心は、幸福への執着にすぎないのである。
ここまでくると、この公案の構造が見えてくる。老婆は執着の象徴である。彼女は、娘の結婚という世間的な幸福に執着し、同時に、悟りという出世間の幸福にも執着している。その執着の炎によって、修行者自身が焼かれてしまった。では、彼はどうするべきだったのか。
彼は、女への誘惑だけでなく、悟りへの誘惑をも断ち切らねばならなかったのである。この、悟りへの執着に気付けるかどうかということが、公案の肝であろう。
よって回答例は、婆を切る、ということになるだろう。老婆は執着の象徴なので、執着を断ち切る、ということは、老婆を切る、ということである。そんな無茶な、と思う人もいるかもしれないが、これはとんちである。悟りとは執着を捨てることなのだから、悟りに執着する限りは、悟りは開けない。そういう教訓である。
こういうふうに答えをばらしてしまうと、とたんにつまらなくなってしまう。ネタバレは私の趣味ではないのだが、しかし、あまりに関心を持ってもらえないのもつらい。これも私なりの布教活動である。
ただし、答が合っているかどうかは保証しない。