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日本人の思考の型は、中国よりもインドに似ていると思う。昔から日本人は、仏教の吸収に熱心で、中国文化の受容はかなり遅れていた。もちろん、政治制度や生活習慣などは、中国を参考にすることが多かった。しかし思想の点からいうと、朱子学や儒学の研究が盛んになるのは江戸期以降で、それ以前は仏教の学者が多かったと言える。また、遣唐使が持ち帰るものも仏典ばかりで、道教の経典はほとんど伝わっていない。日本人は、中国を通してインドを見ていたのである。
日本人の考え方の特徴として、自分の立場を明らかにしないという点がある。中国人や欧米人は、自分の立場を明確にしてから議論を始める。何らかの前提や仮定を立脚点として、その上に議論を組み立ててゆく。それによって、堅固な理論体系が構築される。一方で日本人は、ある立場を特別なものと考えることをしない。無条件に正しいと言えるような命題を立てない。そのために、議論の途中で立場が変わることがありうる。
これは、仏陀の無記と比較すると分かりやすい。魂はあるか、という問いに対して彼は、あるとも言えないし、ないとも言えない、と答えた。その心は、ある場合とない場合の二通りを考えろ、ということである。どちらが正しいかを判断すべき根拠がない場合には、どちらかに態度を決めてはならない。どちらでもありうる、という前提に立って物事を考える必要がある。また、どちらの立場からも同一の結論が導けるのであれば、それが最も確実な答えだと言える。
これは、議論の前提を立てず、前提そのものを吟味する思考法である。はっきりとした立場を決めずに議論を始めるので、あいまいで回りくどいやり方に見えるが、確実性という点ではもっとも優れた推論の方法である。そして、日本人の思考法はこれに近い。ためにヨーロッパのような思想の体系が発達せず、日本には思想がないと考えられてきた。しかし、どれほど立派な哲学理論であっても、それが間違った前提の上に立てられているのであれば、ただの言葉の遊戯にすぎない。ゆえに、日本に思想がないことは悪いことではない。
中国の仏教者の書いたものを読むと、それが僧侶のものであっても、必ず中国的な雰囲気が漂っている。中国的な思考が反映されている、と言ったらいいだろうか。それと比べると、日本の仏教僧の書いたものには中国らしさがない。むしろインド僧に近いとさえ思われる。
これは不思議なことで、日本人は主に漢文を通して仏教を受容してきたのだから、中国人の思惟から、もっと影響を受けていてもよさそうなものである。しかし、中国人と日本人とでは、ものの考え方がまるで違う。
また、先ほどの無記の考え方は、カントのアンチノミーの考察に近いものがあると言える。彼もまた、前提の正しさを問う思考法を身につけていた。カントを中国人と呼んだ人がいたが、当たらずとも遠からずであろう。
概して英米系の学者には、そのような観点が希薄である。自分自身の思考プロセスに対する批判的な視座が欠けている。彼らの分析哲学は抽象化が行き過ぎており、現実の思考プロセスからかけ離れてしまっている。もはや、ただのおしゃべりと選ぶところがない。
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吉本隆明によれば、国家は共同幻想である。詳しいことは知らないが、国民がある種の幻想を共有することで、国家が成り立っている、という意味だろう。これは中国にもっともよくあてはまる。
中国の歴代王朝は、つねに歴史書を編纂してきた。それによって、王朝の正当性が保証されていたのである。それは同時に、国家の基礎となる幻想を、士大夫に提供する役割を果たしていた。では、現代中国を支える共同幻想は何かといえば、それは日本軍の侵略である。
これは毛沢東の発明と思われるが、敵である日本軍の侵略に抵抗する我々中国人、という幻想によって、中国人のアイデンティティが形づくられている。そのため中国人は、日本への非難をやめることができない。共産中国そのものが、日本による侵略を前提として成立しているからである。国民党が国共内戦に敗れたのは、より強力な共同幻想を提示することができなかったからであろう。
日本が水あめだとすれば、中国は水風船である。刺激を与えれば簡単に割れる。中国が日本を侵略するかもしれない、という可能性について考えるとき、本当に憂慮すべきは、それによって中国そのものが崩壊しかねない、ということである。最近の日本は中国に甘い顔をすることが多く、多少の領海侵犯は大目に見ているようである。それによって中国が日本を侮り、本気で攻勢に出た場合、逆に中国が崩壊する可能性がある。
日中が戦った場合、万に一つも中国に勝ち目はない。負けることもないかもしれないが、勝つことも不可能である。なぜならば、日本という国家に共同幻想は存在しないからである。幻想が幻想である限り、それは必ず壊れる運命にある。それが幻想であることに気づかれてしまえば、もはや国家は維持できなくなる。そのような国家はもろい。日本を支えているものは、そのような幻想とは異なるものである。それが何であるかを言うことは難しいが、国体とは幻想ではなく、現実を表す言葉である。
中国は核兵器を保有しているが、その運用の仕方から見ると、報復のためのものだろう。しかし既に述べたように、核兵器を防御のために使うことはできない。
たとえば、「あなたが刀を抜いた後に、私も刀を抜こう」と言う人がいたならば、最初の一太刀で切ってしまえばよい。報復のために用意された武器は、必ず出足が遅れる。その間に本人が切られてしまえば、何の意味もない。このことからも、中国には戦略が欠如していることが分かる。これは英米についても言えることである。また、ロシアの核は純粋に予防的なものだろう。彼らはアメリカほど好戦的ではない。
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聖徳太子は天皇だったのではないか、ということを以前書いたが、それに関連して思いついたことがある。ほとんど妄想に近い話なので、そのつもりで読んでほしい。
太子の死後100年ほどで編纂された日本書紀において、天皇は万世一系かつ男系でなければならない、という規範が示された。この男系という部分に、太子の家系が関係しているのではないか。山背大兄王以下の子息が亡くなることで、太子の男系の家系は途絶えた。しかし、もしかすると、太子の娘の一人が生き残り、子をなしていたのかもしれない。それが男子だった場合、彼の皇位継承を防ぐために、男系天皇という神話が作られたとも考えられる。
これだとつじつまが合わない気もするが、男系には、天皇家の血統を一つに絞る役割があった、と想像することは可能である。太子信者の被害妄想と言われればそれまでだが。
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ウルトラマンは地球を襲う怪獣を倒しに来るが、街中で戦うので建物を破壊してしまう。ではウルトラマンは悪かといえば、悪者を倒してくれるのだから、やはりよいことをしているわけである。目的を遂行するために犠牲が出たとしても、目的そのものが否定されるべきではない。もちろん、被害の大きさは考慮されるべきであるが。
ウルトラマンは日本軍の寓意である。日本軍はアジアで戦闘を繰り広げ、多数の死者を出したが、欧米人を追い払うことには成功した。悪者をやっつけたのだから、やはりよいことをしたと言える。