戦争の非人道性と七三一について

七三一部隊について、少し思ったことがあるので記しておきたい。毎年この時期になると戦争の話が多くなるので、自然と思いがそちらの方へ漂ってしまう。

左翼の人は七三一部隊を糾弾し、右翼の人はでっち上げだと言い張るが、私はどちらにもうんざりしている。彼らが人体実験を行ったのは事実なので、右翼の主張は間違いである。一方で左翼の人々は、それをアウシュビッツと比較しようとするが、それも間違いである。私が理解する限り、七三一部隊は細菌兵器の研究を行っていたのであって、特定の人々を虐殺するために活動していたわけではない。

まず前提として、日本政府及び日本軍が、細菌兵器の開発を意図していたことを認めねばならない。証拠があるかどうかは知らないが、彼らにはそうするだけの動機があったのだから、実際にその仕事に手を付けていたとしてもおかしくない。戦争を有利に進めるための兵器の開発に、国家や軍隊が熱心なのは当然である。

問題は、細菌兵器の性質が、他の兵器とは著しく異なるという点である。たとえばマシンガンや爆弾であれば、どれだけの威力を持っているのかはすぐに分かる。それらの兵器は目に見えるからである。一方で、細菌は目に見えないので、その効果を判定することが難しい。

だが、ある兵器を実戦に投入する場合に、その兵器の威力や性質が分かっていなければ、それを効果的に使用することはできない。つまり、実際に兵士たちにその兵器を使わせるためには、あらかじめその性能を詳しく調べておく必要がある。そして細菌兵器の場合、それは人体実験を意味する。その仕事を担当したのが、七三一部隊だったと考えられる。

かの部隊の元隊員の証言などを聞くと、その内容の凄惨なことに驚かされる。それにショックを受ける人がいることも納得できる。また、彼らのしたことが非人道的だったというのも、その通りだと思う。しかし、その非人道性は、戦争が本来持っている非人道性であって、七三一部隊だけが特に非人道的であったわけではない。マシンガンを開発する仕事と、七三一部隊の活動と、どちらがより残酷であるかを決めることはできない、と私は考える。なぜならば、どちらも人を殺すための道具を作る仕事だからである。

無実の人間を殺すことが非人道的だというならば、戦争そのものが非人道的である。なぜなら戦争とは、無実の人間を殺すことだからである。アウシュビッツは戦争ではない。それは人種的偏見に基づく虐殺である。しかし、七三一部隊の活動は戦争の一環である。ゆえに、これらを同列に論じることは誤りである。


では、戦争と虐殺はどう違うのか。戦争が国を挙げて行う虐殺だとすれば、全ての戦争はアウシュビッツと変わらないのではないか、そう問う人がいるかもしれない。それに対しては、違うと答えるべきだろう。

虐殺の目的は多岐にわたるが、戦争の目的は平和である。平和を目的としない戦争は、戦争の名に値しない。戦争とは、社会的な混乱を収束させるための手段の一つであり、より安定した社会を実現するための人間的な努力である。それは、単なる虐殺とは区別されねばならない。

日中戦争において日本が目指したのは、中国の独立である。つまり、中国人による統一国家の樹立を目指して、日本は戦争を始めたと言える。詳しく話すと長くなるが、簡単に言うと、蒋介石には中国を統一する見込みがなかったので、別の政府を作ろうとしたのである。関東軍が満洲事変を起こしたのも同様の事情で、各地に割拠する軍閥を国民政府が統御できなかったために、日本が動かざるをえなかった。

それは、日本の利益のためにも必要であった。というのも、中国が分裂状態にある限り、いつでも欧米列強の付け入る隙があることになる。そして、中国に対する欧米の影響が強まるほど、日本にとっては不利な状況が作られることになる。日本の利益のために、中国の独立は何としてでも達成されねばならなかった。そしてそれは、日中双方に平和をもたらすことにもなる。つまり日本は、平和のために戦争をしたわけである。それが本来の戦争である。


ただ、七三一部隊に関しては、もう少し別の意見があるのかもしれない。それは、たとえそれが戦争のためだったからといって、どうしてあれほど残酷なことを淡々とできたのか、という疑問である。そこに日本人の残虐性を認める議論も可能であるし、もしかすると、その点こそが問題なのかもしれない。

だがこれに関しては、民族性としか言いようがないだろう。日本人の死生観や戦争観は非常に独特なものであって、ふつう他の民族には理解されないものである。たとえば、切腹という行いを、一種の文化として持ち続けたということは、日本人の特殊性を示して余りある。死に向かうときの日本人の作法や心構えは、それを知らない人間からすると、非常に冷酷で残忍なものに見えるかもしれない。だが、そこにはそれなりの理由があり論理があるのであって、一概に否定することはできない。

死や戦争を避けられないと観念したときの日本人の潔さは、それを自分だけでなく相手にも求めてしまう傾向とも相まって、ときに非常に奇妙なものとして記憶されてきたものである。その根底にあるのは、ある種の楽観主義と執着のなさだろう。切腹という行為には、死すらも楽しもうとする酔狂を感じずにはいられない。だが、切腹の話を聞いて爽快さを覚える感性そのものが、近代的な人間観からすると異常精神ということになるのかもしれない。それはそれでよいだろう。何が異常か正常かを自分で判断できると考えるような傲慢な人間に、語るべき言葉などあるはずがない。

日本人は、物事の表面ではなくその本質を見る。一見非道に見える行いと、良心的に見える行いと、両者をじっくり比べてみれば、それが見えた通りのものであるとは限らない。


もう少し続けたい。私が気になっているのは、どうして日本の戦争が侵略のためだったと考えられているのか、ということである。これはおそらく、戦争に対する考え方の違いに起因するものだろう。

私の意見は既に述べた通り、戦争は平和のために行われる、というものである。しかし、クラウセヴィッツの絶対戦争の概念にみられるように、西洋人にとって戦争は、単なる力のぶつかり合いでしかない。西洋の戦争には目的がなく、彼らはそれを一種の自然現象であるかのように取り扱う。そのように無目的な力の発露として戦争を理解するならば、日本の行った戦争は侵略戦争とみなされざるをえない。

私はここに、西洋人の意気地のなさ、そして無責任さを見出す。戦争は自然現象ではなく、人間が行うものである。人間が人間を殺すということが戦争である。彼らは、それをあたかも必然的なものであるかのように語ることによって、自分が人を殺すことを客観的に眺めようとしている。つまり、戦争は必然的に起きるものだから、私が人を殺しても、それは私の責任ではない、という言い訳をしているようにしか見えない。人を殺すという自分自身の行為に対して、責任を放棄している。だから彼らは、戦争に目的がある、ということを認めることができない。目的、つまり動機があることを認めてしまえば、自分に責任があることを認めざるをえないからである。

そして、そのような観点から日本の戦争を解釈すると、日本人は自らの暴力性を抑えきれず、それが周辺諸国へ向けて発散されたのだ、という話になってしまう。だが、それは事実と異なる。なぜなら日本人は、常に目的をもって戦争を行ってきたからである。戦争とは暴力の発露であり、だからこそ、それは理性によって制御されねばならない。暴力そのものを人間精神から排除しようとする試みは、不誠実で不道徳なものになる。そのような立場に立つ限り、日本の戦争を理解することはできないだろう。

タイトルとURLをコピーしました