男女の欲望

男性向けポルノとフェミニズム

エロ漫画に関しては私も一家言あるが、最近はどうもつまらない。私が熱心に読んでいたころはコミックメガストアの全盛期であり、当時人気のあった作家は月野定規やDISTANCEなどであった。いまでも活躍している人もいるが、彼らに共通して言えるのは、女性の欲望を描けていた、ということだと思う。セックスにおいては、欲望は常に女性の側にある。男には欲望などなく、ただ快楽だけである。そこで、女性の欲望をいかに上手く表現できるかということが、エロ漫画の価値を左右することになる。

最近のエロ漫画は、女性をモノのように扱うことが多い。それは、男から見た女しか描けていないということであり、女性の内面を描くことができていないということである。そういうものが面白くなるはずがない。私には、ポルノ全体が劣化しているように感じられる。

これは由々しき事態である。というのも、ポルノは文化全体を下支えする存在であり、新しい文化はだいたいそこから出てくるからである。それが劣化しているということは、日本文化そのものが衰弱していることを意味している。どうにかしないといけないとは思うが、どうしようもない。ただ、つまらないものはつまらないと言うしかない。

ここまで書いてきて、フェミニズムの話をしようかどうか迷っている。さらにつまらなくなるからである。つまりフェミニストが、女性を対象化するようなポルノを非難するのは、彼女たち自身が、もっと自分の欲望を見てほしいからである。これはまさに安っぽいポルノそのものであり、語るに落ちる。

欲望のありか

セックスに関する話は、どうしても女性が受け身で、男性がリードする形になりがちである。女性は植物的で、男性は動物的だと言ってもよい。だが現実の世界においては、だいたい動物の方が植物にコントロールされているのものである。

ときどきイチジクの中に、小さな虫が入っていることがある。あれはイチジクコバチといって、イチジクの実に寄生している蜂である。イチジクは花をつけないが、実際は実の中で花が咲いている。つまり、体の内側で花が咲くので、花粉を飛ばすことができない。ではどうやって受粉しているのかというと、イチジクコバチに花粉を運んでもらうのである。

この蜂はイチジクの実の中で生まれ、成長したのち外に出て、すぐに別のイチジクの実にもぐり込む。そこで卵を産み、力尽きて死んでしまうのである。卵から孵った雄は、別の卵の中にいる雌の身体に管を突き刺し、精子を放出して死んでしまう。雌は生涯の大半を実の中で過ごし、外に出たかと思うと別の実にもぐり、受粉を行って死ぬ。この蜂の働きによってイチジクは実をつけることができ、我々はおいしいフルーツを楽しむことができるのである。

この話を聞いたとき、私は初めて植物の残酷さを知った。彼らは動物を奴隷化し、自分のために奉仕させているのである。結局、動物は植物なしには生きられないので、植物の方が立場は強くなる。一見すると、動物は能動的に動き回り、植物を貪っているように見えるが、実際は彼らの方が植物にコントロールされている。男と女の関係もこれに近いものがあると思う。男女の性はどこまでも非対称である。

女は自ら動かないが、欲望によって男を動かす。人間は常に、自分の外にあるものによって動かされている。我々が水を飲むとき、自分の意志で水を飲んでいるように感じるが、実際には水によって動かされているのである。というのも、もしも我々の自由意志によって水を飲んでいるのだとすれば、水を飲まないことも可能でなければならない。しかし実際は飲まずにはいられないのであり、人間には選択の余地がないことが分かる。

我々は常に、我々の外にある欲求の対象によって動かされている。このように考えると、自由意志の存在は単なる妄想にすぎないことが分かる。アリストテレスはこれを目的因という言葉で表現し(「目的因とは何か」参照)、パースであれば、これを記号作用と呼んだであろう(「記号心理学」参照)。

LGBTの不可能性

そもそも、男女の区別は自然なものである。簡単に言えば、陰茎がついているのが男であって、ついていないのが女である。これ以上に正確な区別はありえない。基本的に男女の区別は肉体的なものであり、精神的な特徴は二次的なものにすぎない。

ところがある人々は、自分は身体的には男だが、精神的には女なのだ、と主張する。しかし、そもそも男女の区別が身体的な特徴に基づくのであれば、他のどのような特徴によって、男女を区別することができるのだろうか。ある人の精神が女であるとは、一体どういう意味なのか。どのようにすれば、精神において男女を区別できるのか。そもそも、精神において男女を区別する理由がどこにあるのか。私には、トランスジェンダーという言葉の意味が全く理解できない。

それが単に女装をしたい、男装をしたい、ということなのであれば、勝手にすればよいのではないか。あるいは、こちらの方が重要なのだろうが、社会的な制度において性差別が行われていることが問題だ、という意見もある。だが、人間社会が生殖に基づくものであるかぎり、男女の区別を社会から完全に取り除くことはできない。そもそも、生殖行為がなければ人間社会は存続できない。ゆえに、身体的な特徴による男女の区別は自然なものだと言わねばならない。

あるいは、生殖に関する政府の政策に問題があるのだとすれば、それを直接指摘すればよいだけではないか。レズビアンのカップルも夫婦として認めるべきだ、という意見があるが、それはレズビアンのカップルも扶養控除を受けたいということなのだろうか。それとも、自分たちの愛の形を世間に認めてもらいたい、ということなのだろうか。

後者であれば、そういうわけにはいかない。他人の愛を承認するように要求されることは、はっきり言って不愉快である。ホモであれヘテロであれ、私たちは愛し合っています、というところを見せつけられるのは気が滅入る。前者であれば、政策的な議論が必要であろう。扶養控除には次世代の国民を養うという目的もあると思うので、レズビアンのカップルにそれを認めるべきかどうかは分からない。それが差別だと言うなら、生涯独身の人間にも相応の手当てが必要であろう。そもそも、どうして役所がレズビアンのカップルを夫婦として認めねばならないのだろうか。彼らが役所に何を期待しているのか、よく分からない。

あるいは、私は女であると感じればその人は女であり、男であると感じれば男だと言いたいのだろうか。そうすると、自分はユニコーンだと感じる人間はユニコーンであり、自分はクジラだと感じる人間はクジラだということになるのだろうか。

それとも彼らは、男と女という言葉の定義を変更したいのだろうか。何が男であり、何が女であるかという言葉の意味を、彼らの望むように改変したいのだろうか。そうだとすれば、それは断じて許されない社会的不正義である。正義とは、正しい意味ということであり、言葉を正しい仕方で用いることが正義である。正しくない仕方で用いることが不正義である。そのような不正義からあらゆる社会的混乱が生じてくる。ゆえに、もしも彼らがそれを目指しているのであれば、LGBTは断固として否定されねばならない。


イチジクコバチとイチジクの間に愛があるのかどうか、私は知らないし、知りたくもない。愛とは、生き物を縛る鎖である。

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