1
仏教では自殺は禁止されていないのか、という疑問がときどき提出される。これについて考えてみたい。
そもそも、仏教で何かが禁止されているという場合、それはタブーを意味するわけではない。それぞれの人間が、自分の判断でそれをやめるべきだ、あるいは、やめたほうがよい、と言っているだけである。
キリスト教においては、神がそれを禁止する、ということがありうる。神には人の行いを罰する力があるからである。しかし仏教では、そのような虚構の存在を認めない。だから、仏教における戒とは、ある意味では推奨であり、ある意味では道理を説くものである。
自殺は、愚かさと怒りを原因とする。自殺そのものが悪いことなのではなく、自分は自殺しなければならない、という考えを抱かせる原因が煩悩であり、それを滅ぼすことが仏教の目的である。自殺が戒められているということは、そういうことである。
したがって、捨身飼虎のように、他者の煩悩を滅するために自らの命を投げ出すという行為は、必ずしも間違いとは言えない。それはむしろ、自殺の対極にある行いである。ときどき人は、見かけが同じものを、中身まで同一であると勘違いしてしまう。しかし、ダイヤモンドと水晶を取り違えてはいけない。
仏陀には、人を罰する力はない。ただ、人を憐れむだけである。自殺する人を罰するのではなく、ただ、その愚かさを憐れんでいらっしゃる。
2
我々は、ある行為が善か悪か、ということを考えるだけでは不十分である。それよりも、何がその行為の原因となっているのか、そして、その行為の結果として何が生じるのか、ということを考察するほうが重要である。なぜなら、その行為が悪い結果をもたらすならば、それをやめねばならない。しかし、それをやめるためには、その原因を知る必要があるからである。その行為が善か悪かということが分かったところで、どうやってそれをやめればよいのか、ということが分からなければ意味がない。ゆえに、善悪の判断よりも、原因と結果の考察の方が重要である。
命は尊い、ということが分かったからといって、それを救う術が分からなければ意味はない。何がよいことであるかが分かったら、それを実現するための手段を探さなければならない。そのためには、原因と結果の関係を知る必要がある。
ある原因からは、ある結果が生じる。別の原因からは、別の結果が生じる。したがって、自分が望む結果を生じさせるためには、その結果を生じさせる原因を作らなければならない。誤った原因を作ってしまえば、誤った結果が生じる。正しい原因を作れば、正しい結果が生じる。原因と結果の正しい関係を知らないことが無知であり、それを知っていることが知恵である。何が善であり、何が悪であるかを知っていることは知恵ではない。それは無知に等しい。
キリスト教徒にとっては、因果律は意味を持たない。神の意志や人間の自由意志は、因果律にとらわれないとされているからである。しかし、そんなものは実在しない。実在しないものを原因として幸福が実現されると考えているのだから、それが誤りであることは明らかである。何の苦労もせずに、自分が望んだとおりのものが実現されるということはありえない。たとえそれが、あなたの心の中で起きることだとしても、ありえないのである。
ある心理現象が生じるためには、そのための原因を必要とする。その原因がなければ、その心理現象があなたの心の中に生じることはない。人間は、自分の心の中で起きることを、自由に決められるわけではない。ある心の状態を実現するためには、適切な原因を用意しなければならない。怒りのない状態、愚かさのない状態、苦痛のない状態、それぞれの状態には、それぞれの原因がある。仏の知恵とは、こういった問題に関するものである。
あらゆる苦痛と不幸の原因は無知である。それが仏陀の考察である。
3
たとえば、自分の子供のために命を投げ出す親は、間違ったことをしていると言えるだろうか。それが間違いではないのなら、見ず知らずの人間のために自分の命を投げ出すことを、どうして間違いだと言えるのか。それが悪いことだと言えるなら、それは一体どんな根拠によってなのか。
自殺が悪いことだと言われるのはどうしてなのか。命を損なうことが無条件に悪いことだから、自分の命を損なうことも悪いことだと言えるのか。だとすれば、自分の命を投げ出すことで、他者の命を救える場合、そして、自分の命を投げ出さなければ、その人の命が失われてしまう場合、そういう場合に、自分の命を投げ出すことと、投げ出さないことと、どちらがよいことであり、どちらが悪いことなのか。自殺が悪いことであると言える根拠はどこにあるのか。自殺が悪だという考えは、ただのエゴイズムではないのか。自己犠牲を厭う気持ちを後押しする免罪符なのではないか。だから、自殺がよいことだ、とは言えない。しかし、悪いことだとも言えない。ただ、分かりもしないことに簡単に判断を下すのはよくないのではないか、と思う。
自殺が悪いことである場合があるからと言って、無条件に、全ての場合に自殺が悪いことであると言えるわけではない。自殺がよいことである場合も、可能性としてはありうるのではないか。少なくとも、あらゆる場合に自殺が悪であるということを証明することができないならば、その可能性を認めてもよいのではないか。
これがおそらく、東洋的な道徳の問題である。悪を断罪するのではなく、何がよいことでありうるか、善はどこまで発展しうるか、ということを追求することである。
<文学とアニメーション 終>